2016年11月24日木曜日

『一私小説書きの日乗』シリーズ、西村賢太という作家

 きょう久々にアマゾンで「西村賢太」と検索を入れると、来年1月12日に新刊「芝公園六角堂跡」の予約告知が出ていたので、さっそく予約を入れる。
 じつは小説系の書籍を新刊で買うのは西村賢太だけでなのである。少なくとも私が生きている間は、この作家には生き残って欲しいという思いがあるからで、僅少とは言え、少しでも印税収入に貢献するつもりで新刊を買い続けているのである。

 西村賢太は直木賞受賞会見で「これから風俗に行こうとしていた」発言がマスコミにも多く取り上げられたことが、この作家を知った嚆矢濫觴となった。受賞作「苦役列車」が映画化されたこともあり、手にとって見ようと決めたのだが、ここからは私のルーティンに従うことにした。
 つまり興味を持った作家は、エッセイ・随筆の類から入るのである。で、手に入れたのが「一私小説書きの日乗」。これがハマってしまった。自分の物書き生活を日々断片メモ書き程度の文章で書き綴っただけのもの、であるはずなのに、夕方仕事を終えて、コーヒーでも飲みながら読むと、緊張した脳神経が解きほぐされてゆくような解放感を覚えるのだ。
 このシリーズ、刊行ごとに何かが進展するわけではなく、「五流作家」を自称する一私小説書きの西村賢太の厭きるほど同じように繰り返される「日乗」が描かれる。イジられ役の新潮社田畑氏、天敵の同じく新潮社の矢野氏という現役の本物編集者はこのシリーズには欠かせない役者達だ。編集者たちとの打ち合わせ終了後の会食場所鶯谷の「信濃路」、早稲田鶴巻町の「砂場」、朝方原稿執筆後のジャンクフードをあてにした宝焼酎「純」も舞台装置として重要な役割を果たし、自らが師と仰ぐ藤澤清造の造語「買淫」行動後のレビュー「きょうは大当たり」「きょうはハズレ」などにもお相手のイメージをつい夢想してしまう。西村賢太の作家の日乗はこれらのルーティンの繰り返しだ。

 これはあくまでも私の裡だけの話だが、このシリーズはチェホフの「サハリン島」に比類しているのである。この作品は、当時のロシア帝国の流刑地「サハリン島」調査にのためにシベリアを横断し、海を渡ってサハリン島に渡り、サハリン内の流刑人を預かっていた各村を巡り、ただただ淡々と人口動態調査を行い、記録した旅行記なのだが、テーマも内容もまったく違うこの二人の作家と二つの作品は、私の裡に同じリズムを刻むのだ。

※:備忘録:一私小説書きシリーズは次の通りです(まだ他にあったかな?)

「一私小説書きの日乗」「一私小説書きの日乗〜野性の章」「一私小説書きの独語」「一私小説書きの日乗〜遥道の章」「一私小説書きの日乗〜憤怒の章」


2016年11月16日水曜日

入唐求法巡礼行記 円仁の時代

 自宅からママチャリで数分のところに、平安時代からの古刹「圓融寺」がある。寺の縁起(ウェブサイトで見える)には、仁寿三年(853年)、慈覚大師による創建と謳われている。円仁のことである。
 本書はこの円仁が入唐請益僧として承和六年(839年)に、けっきょく最後の遣唐使船団になってしまったのであるが、四船で仕立てられた承和遣唐使船団の遣唐大使藤原常嗣(つねつぐ)が駕せる第一船に乗り込み、入唐して十年間求法巡礼した際の自署の旅行記である。

 四船仕立てと書いたが、この承和遣唐使船団においては、しばしば難船してその目的を達せず、との巻頭からはじまる。けっきょくその第三船はすでに過海の用に堪えることができず、第二船は副使の病故により出発できなかった。

※ウィキ記述引用
承和3年・承和4年とも渡航失敗。この過程で第一船が損傷し、大使の常嗣は副使の小野篁が乗る予定の第二船と自身の第一船を交換した。これを不服とした篁は常嗣への不信と親の介護、自身の病を挙げて渡航に不参加。流罪となった。副使不在のため藤原貞敏が現地代行。帰途、新羅船9隻を雇い帰る。第2船は帰途に南海の島に漂着。良岑長松、菅原梶成は協力し廃材を集めて船を作って大隅国に帰着した。


 結句、何やかやがあって、二船で渡航するのであるが、渡航が決まった後も、八日ほど順風を得るために途中待機し、その後ようやく東支那海に出る。しかし、ここで大嵐に出遭遇し、船の中は阿鼻叫喚の地獄絵図、荷物が流れ出し、神仏に祈る者多数、まさに乗船し現場の中にいた円仁でなければ書けなかった描写は鬼気迫るものがある。円仁の筆力が窺えるのだ。この巻頭部分を読むだけでも当時の状況、背景が垣間見れるし、どのような危機的状況下でも明晰怜悧な円仁という人物像をたどる事ができるのだ。

 本書は1955年にハーバードの教授だった(のちに駐日大使)のエドウィン・ライシャワー博士によって、明治に入って再発見された東寺写本を英訳され、海外にも広く知られる存在になった。

 帰朝後、円仁は圓融寺をはじめ、全国に多くの寺を建立して行ったが、この100年間の入唐時代が果たした役割がその後の円仁を形作った、その本人の言葉でそのことを味わえる歴史に残る名著、だと私は思っている。