自宅からママチャリで数分のところに、平安時代からの古刹「圓融寺」がある。寺の縁起(ウェブサイトで見える)には、仁寿三年(853年)、慈覚大師による創建と謳われている。円仁のことである。
本書はこの円仁が入唐請益僧として承和六年(839年)に、けっきょく最後の遣唐使船団になってしまったのであるが、四船で仕立てられた承和遣唐使船団の遣唐大使藤原常嗣(つねつぐ)が駕せる第一船に乗り込み、入唐して十年間求法巡礼した際の自署の旅行記である。
四船仕立てと書いたが、この承和遣唐使船団においては、しばしば難船してその目的を達せず、との巻頭からはじまる。けっきょくその第三船はすでに過海の用に堪えることができず、第二船は副使の病故により出発できなかった。
※ウィキ記述引用
承和3年・承和4年とも渡航失敗。この過程で第一船が損傷し、大使の常嗣は副使の小野篁が乗る予定の第二船と自身の第一船を交換した。これを不服とした篁は常嗣への不信と親の介護、自身の病を挙げて渡航に不参加。流罪となった。副使不在のため藤原貞敏が現地代行。帰途、新羅船9隻を雇い帰る。第2船は帰途に南海の島に漂着。良岑長松、菅原梶成は協力し廃材を集めて船を作って大隅国に帰着した。
結句、何やかやがあって、二船で渡航するのであるが、渡航が決まった後も、八日ほど順風を得るために途中待機し、その後ようやく東支那海に出る。しかし、ここで大嵐に出遭遇し、船の中は阿鼻叫喚の地獄絵図、荷物が流れ出し、神仏に祈る者多数、まさに乗船し現場の中にいた円仁でなければ書けなかった描写は鬼気迫るものがある。円仁の筆力が窺えるのだ。この巻頭部分を読むだけでも当時の状況、背景が垣間見れるし、どのような危機的状況下でも明晰怜悧な円仁という人物像をたどる事ができるのだ。
本書は1955年にハーバードの教授だった(のちに駐日大使)のエドウィン・ライシャワー博士によって、明治に入って再発見された東寺写本を英訳され、海外にも広く知られる存在になった。
帰朝後、円仁は圓融寺をはじめ、全国に多くの寺を建立して行ったが、この100年間の入唐時代が果たした役割がその後の円仁を形作った、その本人の言葉でそのことを味わえる歴史に残る名著、だと私は思っている。
本書はこの円仁が入唐請益僧として承和六年(839年)に、けっきょく最後の遣唐使船団になってしまったのであるが、四船で仕立てられた承和遣唐使船団の遣唐大使藤原常嗣(つねつぐ)が駕せる第一船に乗り込み、入唐して十年間求法巡礼した際の自署の旅行記である。
四船仕立てと書いたが、この承和遣唐使船団においては、しばしば難船してその目的を達せず、との巻頭からはじまる。けっきょくその第三船はすでに過海の用に堪えることができず、第二船は副使の病故により出発できなかった。
※ウィキ記述引用
承和3年・承和4年とも渡航失敗。この過程で第一船が損傷し、大使の常嗣は副使の小野篁が乗る予定の第二船と自身の第一船を交換した。これを不服とした篁は常嗣への不信と親の介護、自身の病を挙げて渡航に不参加。流罪となった。副使不在のため藤原貞敏が現地代行。帰途、新羅船9隻を雇い帰る。第2船は帰途に南海の島に漂着。良岑長松、菅原梶成は協力し廃材を集めて船を作って大隅国に帰着した。
結句、何やかやがあって、二船で渡航するのであるが、渡航が決まった後も、八日ほど順風を得るために途中待機し、その後ようやく東支那海に出る。しかし、ここで大嵐に出遭遇し、船の中は阿鼻叫喚の地獄絵図、荷物が流れ出し、神仏に祈る者多数、まさに乗船し現場の中にいた円仁でなければ書けなかった描写は鬼気迫るものがある。円仁の筆力が窺えるのだ。この巻頭部分を読むだけでも当時の状況、背景が垣間見れるし、どのような危機的状況下でも明晰怜悧な円仁という人物像をたどる事ができるのだ。
本書は1955年にハーバードの教授だった(のちに駐日大使)のエドウィン・ライシャワー博士によって、明治に入って再発見された東寺写本を英訳され、海外にも広く知られる存在になった。
帰朝後、円仁は圓融寺をはじめ、全国に多くの寺を建立して行ったが、この100年間の入唐時代が果たした役割がその後の円仁を形作った、その本人の言葉でそのことを味わえる歴史に残る名著、だと私は思っている。
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