私は当時パリで仕事をしていて、一日だけの休日を、つまり日帰りでパリ、バルセロナ往復を企てた。当時インターネットなどもなく、パリ市内のどこを彷徨いたのかは記憶に定かではないが、どこかの通りに面した小さな旅行代理店のドアを開け、オルリ空港とバルセロナ・エルプラット国際空港間の往復チケットを購入した。
当日まだ夜明け前の真っ暗な時間にホテルのフロントでタクシーを呼んでもらい、オルリに向かった。空港ビルから飛行機まではトレーラー式のバスだったことは、このことは数十年経ったいまでも鮮明に覚えている。
パリからバルセロナまでは二時間ちょっとだ。(東京、沖縄間くらいか?)地中海沿岸を舐めるようにして高度を下げ、空港に着いた。空港を出てタクシー乗り場に向かう。ここの部分は記憶がおぼろ状態なのだが、運転手と一日貸切りの交渉をした。スペイン語も、フランス語もしゃべらないので、英語での交渉だったのだろう。
そして交渉妥結、まずは、この弾丸旅行の一番の目的であるピカソ国立美術館を目指した。じつを言うと、この年の何年か前にニューヨークのMoMA(近代美術館)で「ゲルニカ」を見ていた。観ている者を圧倒するその迫力に、まさに息を呑む思いで立ち竦んでしまったのだ。この場面は数十年経ったいまでも記憶が鮮明だ。
そのときの強靭な記憶が、もう一度「ゲルニカ」を観たいという気持ちを燃やし続け、ずっと私の裡に燻りつづける源となっていたのだ。この間に、「ゲルニカ」はアメリカMoMAからスペイン・バルセロナの国立ピカソ美術館に返還された(年譜を見ると1981年のことだったようだ)。よしバルセロナに「ゲルニカ」を見に行こう、それがパリからやって来た理由というわけだ。
そしてピカソ美術館に着いた。が何と「本日休館」の表示が立てかけてあるではないか。ピカソ美術館は月曜日が定休日であることを美術館の玄関の前ではじめて知ったのであった。延泊するだけの時間的余裕もなく、やむなく諦めるよりほかにすべはなかった。そうして、その日の予定はすべてガウディの建築群巡りに充てることになってしまったのである。という経緯が、この「暗幕のゲルニカ」を読み始める直前までの私の理解であり、記憶であった。
そしてこの本ではじめて「ゲルニカ」が返還されたのは、バルセロナのピカソ国立美術館ではなく、何とマドリードのプラド美術館、そして1992年にソフィア・レイナ芸術センターに移管されたことを知る(バルセロナ五輪開催の年だ)。これはある意味、大きな衝撃だった。
「ゲルニカ」がピカソ美術館に返還されたという、当時私が掴んだ情報がどこから齎されたものか、今となっては知るべくもないが、しつこいが、これはほんとうに衝撃だった。
「暗幕のゲルニカ」は2016年下期の直木賞候補作品にノミネートされたが、受賞は逃した。私にとっては充分読みのめるだけの力を持った作品であったが残念なことではある。
当日まだ夜明け前の真っ暗な時間にホテルのフロントでタクシーを呼んでもらい、オルリに向かった。空港ビルから飛行機まではトレーラー式のバスだったことは、このことは数十年経ったいまでも鮮明に覚えている。
パリからバルセロナまでは二時間ちょっとだ。(東京、沖縄間くらいか?)地中海沿岸を舐めるようにして高度を下げ、空港に着いた。空港を出てタクシー乗り場に向かう。ここの部分は記憶がおぼろ状態なのだが、運転手と一日貸切りの交渉をした。スペイン語も、フランス語もしゃべらないので、英語での交渉だったのだろう。
そして交渉妥結、まずは、この弾丸旅行の一番の目的であるピカソ国立美術館を目指した。じつを言うと、この年の何年か前にニューヨークのMoMA(近代美術館)で「ゲルニカ」を見ていた。観ている者を圧倒するその迫力に、まさに息を呑む思いで立ち竦んでしまったのだ。この場面は数十年経ったいまでも記憶が鮮明だ。
そのときの強靭な記憶が、もう一度「ゲルニカ」を観たいという気持ちを燃やし続け、ずっと私の裡に燻りつづける源となっていたのだ。この間に、「ゲルニカ」はアメリカMoMAからスペイン・バルセロナの国立ピカソ美術館に返還された(年譜を見ると1981年のことだったようだ)。よしバルセロナに「ゲルニカ」を見に行こう、それがパリからやって来た理由というわけだ。
そしてピカソ美術館に着いた。が何と「本日休館」の表示が立てかけてあるではないか。ピカソ美術館は月曜日が定休日であることを美術館の玄関の前ではじめて知ったのであった。延泊するだけの時間的余裕もなく、やむなく諦めるよりほかにすべはなかった。そうして、その日の予定はすべてガウディの建築群巡りに充てることになってしまったのである。という経緯が、この「暗幕のゲルニカ」を読み始める直前までの私の理解であり、記憶であった。
そしてこの本ではじめて「ゲルニカ」が返還されたのは、バルセロナのピカソ国立美術館ではなく、何とマドリードのプラド美術館、そして1992年にソフィア・レイナ芸術センターに移管されたことを知る(バルセロナ五輪開催の年だ)。これはある意味、大きな衝撃だった。
「ゲルニカ」がピカソ美術館に返還されたという、当時私が掴んだ情報がどこから齎されたものか、今となっては知るべくもないが、しつこいが、これはほんとうに衝撃だった。
「暗幕のゲルニカ」は2016年下期の直木賞候補作品にノミネートされたが、受賞は逃した。私にとっては充分読みのめるだけの力を持った作品であったが残念なことではある。

※1962年のピカソ、どこかブルース・ウィリス風じゃないか?