2016年12月17日土曜日

暗幕のゲルニカ 原田マハ

 私は当時パリで仕事をしていて、一日だけの休日を、つまり日帰りでパリ、バルセロナ往復を企てた。当時インターネットなどもなく、パリ市内のどこを彷徨いたのかは記憶に定かではないが、どこかの通りに面した小さな旅行代理店のドアを開け、オルリ空港とバルセロナ・エルプラット国際空港間の往復チケットを購入した。
 当日まだ夜明け前の真っ暗な時間にホテルのフロントでタクシーを呼んでもらい、オルリに向かった。空港ビルから飛行機まではトレーラー式のバスだったことは、このことは数十年経ったいまでも鮮明に覚えている。

 パリからバルセロナまでは二時間ちょっとだ。(東京、沖縄間くらいか?)地中海沿岸を舐めるようにして高度を下げ、空港に着いた。空港を出てタクシー乗り場に向かう。ここの部分は記憶がおぼろ状態なのだが、運転手と一日貸切りの交渉をした。スペイン語も、フランス語もしゃべらないので、英語での交渉だったのだろう。

 そして交渉妥結、まずは、この弾丸旅行の一番の目的であるピカソ国立美術館を目指した。じつを言うと、この年の何年か前にニューヨークのMoMA(近代美術館)で「ゲルニカ」を見ていた。観ている者を圧倒するその迫力に、まさに息を呑む思いで立ち竦んでしまったのだ。この場面は数十年経ったいまでも記憶が鮮明だ。
 そのときの強靭な記憶が、もう一度「ゲルニカ」を観たいという気持ちを燃やし続け、ずっと私の裡に燻りつづける源となっていたのだ。この間に、「ゲルニカ」はアメリカMoMAからスペイン・バルセロナの国立ピカソ美術館に返還された(年譜を見ると1981年のことだったようだ)。よしバルセロナに「ゲルニカ」を見に行こう、それがパリからやって来た理由というわけだ。

 そしてピカソ美術館に着いた。が何と「本日休館」の表示が立てかけてあるではないか。ピカソ美術館は月曜日が定休日であることを美術館の玄関の前ではじめて知ったのであった。延泊するだけの時間的余裕もなく、やむなく諦めるよりほかにすべはなかった。そうして、その日の予定はすべてガウディの建築群巡りに充てることになってしまったのである。という経緯が、この「暗幕のゲルニカ」を読み始める直前までの私の理解であり、記憶であった。

 そしてこの本ではじめて「ゲルニカ」が返還されたのは、バルセロナのピカソ国立美術館ではなく、何とマドリードのプラド美術館、そして1992年にソフィア・レイナ芸術センターに移管されたことを知る(バルセロナ五輪開催の年だ)。これはある意味、大きな衝撃だった。
 「ゲルニカ」がピカソ美術館に返還されたという、当時私が掴んだ情報がどこから齎されたものか、今となっては知るべくもないが、しつこいが、これはほんとうに衝撃だった。

 「暗幕のゲルニカ」は2016年下期の直木賞候補作品にノミネートされたが、受賞は逃した。私にとっては充分読みのめるだけの力を持った作品であったが残念なことではある。






※1962年のピカソ、どこかブルース・ウィリス風じゃないか?

2016年12月2日金曜日

「知の逆転」インタビュアー吉成真由美の価値

 実はこの「知の逆転」、二年ほど前に一度読了しているのだが、このときに受けた興奮がその後ずっと記憶の奥底で沸々と沸き続けていた。読み終わった本自体は地下のトランクルーム内の書棚に並べてあるのだが、数日前にアマゾンで何気にこの本を検索してみたら、表紙のデザインが新装されているではないか。しかもプライム枠(当日配送枠)それだけの理由で、私としてはめずらしく新刊注文してしまったのである。
 何度も言うようであるが、同じ本が地下に眠っているのに、、。
注文当日の夜届いた本を開封すると、本の帯に「20万部突破」のゴシックの大きなコピーが堂々と謳われている。この種のジャンルで20万部というのは異例ではないのだろうか。本の世界でもやはり「本物」は評価され、買われるものだと改めて思う。

 現代世界最高の叡智6人、「銃・病原菌・鉄」の著者で進化生物学者のジャレド・ダイアモンド、言語学者ノーム・チョムスキー、神経科医オリバー・サックス、「人工知能の父」マービン・ミンスキー、数学者であり企業家トム・レイトン、DNA分子構造の共同発見者で分子生物学者ジェームズ・ワトソン。
 この6人にサイエンスジャーナリスト吉成真由美がインタビューし、纏められている。
今回私は、インタビューの聴き手であり、編集も主導したと思われるこの吉成真由美に注目したい。この本が売れたのは、それぞれの叡智が紡ぎ出す言葉の重み、新鮮な驚きということもあるがあ、吉成が果たした役割もかなり大きいのではないかと思っているのだ。

 この場での不適切をあえて言うならば、例えばテレビのバラエティー、芸人たちの機関銃を撃ちまくるようなやり取り、ライブではその魅力が半減してしまうということをご存知だろうか。つまり「編集」という番組作りての技が加わってこその番組成立なのである。特に最近視聴率が好調な日テレ系のバラエティー番組についてはとくのそう感じている。

 本書においては、このインタビュアー吉成真由美こそ、隠れた主役であり、ディレクターだ。今日現在ウィキペディアにも彼女の解説ページは見られないので、プロフィールは限られたものしか分からないが、ハーバード大学大学院心理学部脳科学を専攻した元NHKディレクターで、ノーベル医学生理学賞受賞者利根川進とインタビューで知り合い、その後結婚したという。ある意味、利根川進も惚れ込むほどの魅力と知性を持った女性なのだろう。

<備忘録>二年前の読書メモ

★「成長の限界」に達しつつあるかという点については、まさにその通りで、すでに成長の限界に達していると言わざるを得ません。世界の森林の伐採の限界、世界の漁場は開発され尽くした。あと20~30年もすれば、さらに30億人もの人間が大量消費するようになって、資源の枯渇に拍車がかかる。(ジャレド・ダイアモンド)

★ 日本は残念ながら世界漁場における過剰捕獲国の一つであり、世界の漁場安定化にためにリーダーシップを発揮すべき立場であるのに、まだそうしていない。これが現代日本の矛盾点です。(ジャレド・ダイアモンド)

★ アメリカ最大の民間輸出品目は、民間航空機でしょうが、民間航空機とは、要するに改良を加えた爆撃機のことですね。唯一市場原理だけで動いているのが金融部門です。だから何度も破綻する。世界を括目させたアメリカの大量生産システムも、政府の防衛部門によって開発された。(ノーム・チョムスキー)

★ 科学の歴史を振り返ってみると、叡智というものは、アイザック・ニュートン、ジョン・フォン・ノイマン、アラン・チューリング、アインシュタイン、などの「個人知能」によってもたらされているのがわかります。わずか100人の個人が、知的革命によって西欧の科学と言うものを形作ってきたわけで、大衆の「集合知能」のほうは、逆に科学を何百年も停滞させてきたのです。(マービン・ミンスキー)

★ 問題は研究者がロボットに人間のまねをさせることに血道をあげているということ、つまり単に「それらしく見える」だけの表面的な真似をさせることに夢中になっているというところにあります。なぜ福島原発にロボットを送りこんで作業させられなかったか、30年前の進歩はほとんど止まっている。(マービン・ミンスキー)
⇒※パラパラをロボットに踊らせる日本人開発者?(※個人注釈です)

★「生命とはDNAに保存された情報である」(ジェームズ・ワトソン)

さて二回目、読み始めようか、、、。

2016年11月24日木曜日

『一私小説書きの日乗』シリーズ、西村賢太という作家

 きょう久々にアマゾンで「西村賢太」と検索を入れると、来年1月12日に新刊「芝公園六角堂跡」の予約告知が出ていたので、さっそく予約を入れる。
 じつは小説系の書籍を新刊で買うのは西村賢太だけでなのである。少なくとも私が生きている間は、この作家には生き残って欲しいという思いがあるからで、僅少とは言え、少しでも印税収入に貢献するつもりで新刊を買い続けているのである。

 西村賢太は直木賞受賞会見で「これから風俗に行こうとしていた」発言がマスコミにも多く取り上げられたことが、この作家を知った嚆矢濫觴となった。受賞作「苦役列車」が映画化されたこともあり、手にとって見ようと決めたのだが、ここからは私のルーティンに従うことにした。
 つまり興味を持った作家は、エッセイ・随筆の類から入るのである。で、手に入れたのが「一私小説書きの日乗」。これがハマってしまった。自分の物書き生活を日々断片メモ書き程度の文章で書き綴っただけのもの、であるはずなのに、夕方仕事を終えて、コーヒーでも飲みながら読むと、緊張した脳神経が解きほぐされてゆくような解放感を覚えるのだ。
 このシリーズ、刊行ごとに何かが進展するわけではなく、「五流作家」を自称する一私小説書きの西村賢太の厭きるほど同じように繰り返される「日乗」が描かれる。イジられ役の新潮社田畑氏、天敵の同じく新潮社の矢野氏という現役の本物編集者はこのシリーズには欠かせない役者達だ。編集者たちとの打ち合わせ終了後の会食場所鶯谷の「信濃路」、早稲田鶴巻町の「砂場」、朝方原稿執筆後のジャンクフードをあてにした宝焼酎「純」も舞台装置として重要な役割を果たし、自らが師と仰ぐ藤澤清造の造語「買淫」行動後のレビュー「きょうは大当たり」「きょうはハズレ」などにもお相手のイメージをつい夢想してしまう。西村賢太の作家の日乗はこれらのルーティンの繰り返しだ。

 これはあくまでも私の裡だけの話だが、このシリーズはチェホフの「サハリン島」に比類しているのである。この作品は、当時のロシア帝国の流刑地「サハリン島」調査にのためにシベリアを横断し、海を渡ってサハリン島に渡り、サハリン内の流刑人を預かっていた各村を巡り、ただただ淡々と人口動態調査を行い、記録した旅行記なのだが、テーマも内容もまったく違うこの二人の作家と二つの作品は、私の裡に同じリズムを刻むのだ。

※:備忘録:一私小説書きシリーズは次の通りです(まだ他にあったかな?)

「一私小説書きの日乗」「一私小説書きの日乗〜野性の章」「一私小説書きの独語」「一私小説書きの日乗〜遥道の章」「一私小説書きの日乗〜憤怒の章」


2016年11月16日水曜日

入唐求法巡礼行記 円仁の時代

 自宅からママチャリで数分のところに、平安時代からの古刹「圓融寺」がある。寺の縁起(ウェブサイトで見える)には、仁寿三年(853年)、慈覚大師による創建と謳われている。円仁のことである。
 本書はこの円仁が入唐請益僧として承和六年(839年)に、けっきょく最後の遣唐使船団になってしまったのであるが、四船で仕立てられた承和遣唐使船団の遣唐大使藤原常嗣(つねつぐ)が駕せる第一船に乗り込み、入唐して十年間求法巡礼した際の自署の旅行記である。

 四船仕立てと書いたが、この承和遣唐使船団においては、しばしば難船してその目的を達せず、との巻頭からはじまる。けっきょくその第三船はすでに過海の用に堪えることができず、第二船は副使の病故により出発できなかった。

※ウィキ記述引用
承和3年・承和4年とも渡航失敗。この過程で第一船が損傷し、大使の常嗣は副使の小野篁が乗る予定の第二船と自身の第一船を交換した。これを不服とした篁は常嗣への不信と親の介護、自身の病を挙げて渡航に不参加。流罪となった。副使不在のため藤原貞敏が現地代行。帰途、新羅船9隻を雇い帰る。第2船は帰途に南海の島に漂着。良岑長松、菅原梶成は協力し廃材を集めて船を作って大隅国に帰着した。


 結句、何やかやがあって、二船で渡航するのであるが、渡航が決まった後も、八日ほど順風を得るために途中待機し、その後ようやく東支那海に出る。しかし、ここで大嵐に出遭遇し、船の中は阿鼻叫喚の地獄絵図、荷物が流れ出し、神仏に祈る者多数、まさに乗船し現場の中にいた円仁でなければ書けなかった描写は鬼気迫るものがある。円仁の筆力が窺えるのだ。この巻頭部分を読むだけでも当時の状況、背景が垣間見れるし、どのような危機的状況下でも明晰怜悧な円仁という人物像をたどる事ができるのだ。

 本書は1955年にハーバードの教授だった(のちに駐日大使)のエドウィン・ライシャワー博士によって、明治に入って再発見された東寺写本を英訳され、海外にも広く知られる存在になった。

 帰朝後、円仁は圓融寺をはじめ、全国に多くの寺を建立して行ったが、この100年間の入唐時代が果たした役割がその後の円仁を形作った、その本人の言葉でそのことを味わえる歴史に残る名著、だと私は思っている。


2016年10月31日月曜日

明治チェルシーの唄(CD) 

 このCDは当時明治製菓の関係者に、かなり無理を言ってもらった。それほどまでに、明治チェルシーのこのCMソングが好きだった。このCDには1971年のシモンズから2003年のCHEMISTRYまで16人のシンガーによって歌い継がれ、さらにカラオケバージョンが4つオマケで収録されている。

 このCD当初は非売品だったはず。いまふと思い立ってアマゾンで検索してみると、何と販売されていたのだ。この唄を聴くと、過ぎ去ったそれぞれの時代の情景が記憶の底から蘇ってくる。そう言えばこの曲も小林亜星の作曲だ。(まだご存命か?)
 40年以上も商品が続き、CMソングも名曲として心に残っているって、凄いことじゃないか、、。
 チェルシーはコンビニでこそ見かけることはほとんどなくなったが、少なくともSEIYUドットコムではふつうに販売されている。小学校時代の遠足の必需品だった「カルミン」が販売終了したいま、時代を超えて残っていてほしいお菓子であり、CMソングである。


2016年10月30日日曜日

「一外交官の見た明治維新」 アーネスト・サトウ

 江戸時代末期から明治初期にかけて、欧米から多くの外交官、学者、実業家が日本に入り、多くの手記を残した。その多くは日本国内でも出版され、いまでも私たちは目を通すことができる。
 私の本棚を見ても、「長崎伝習所の日々」(カッテンディーケ)、「大君の都ー幕末日本滞在記」(ラザフォード・オールコック)、「日本その日その日」(モース)、「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」(ホーレス・ケプロン)が並んでいるのだ。

 しかしその中でも他を圧して面白かったのが、この「一外交官の見た明治維新」アーネスト・サトウ著だ。上下巻に分かれた本書は、著者が1862年(文久2)に英国外交官として来日し、1869年(明治2)に英国に帰国するまでの滞在記だ。
 サトウは孝明帝、明治帝をはじめとする明治維新の立役者西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文や幕府側の徳川慶喜、勝海舟などにも多くの面談を重ね、手記に残した。

 これほどの会談を重ねることができたその背景としてサトウの天才的とも言える語学力があったことは否めない。それまでの通訳はオランダ語をあいだに入れ、あるいは中国語をあいだに入れと、実にまどろっこしく、コミュニケーションに時間を要した。
 事実、1854年(嘉永7)に締結した「日米和親条約」も、英語版と日本語版のあいだに中国語版が介在して締結されたことはあまり知られていない。アーネスト・サトウがこの慣習を打ち破ったのである。本格的な日本語の習得は日本に入ってからのようであるが、このような天才的語学力を持った人によっての手記は、なによりも描写が詳細であるし、現実感を持つ。

 たとえば孝明帝は、白化粧に引眉し、おでこに朧上の墨眉を描ていて、下顎前突、吃音だったと外観の描写が詳細だ。日本人の記録ではまず見られない。
 これは別書になるが、外国人ジャーナリストが、昭和天皇の知能レベルにまで及んでいる手記を読んだことがあるが、日本人にとっては不敬の領域まで切り込んでいることが、読者に現実感を与えているのかも知れない。

 ついでにもう一つ、枝葉的なところを紹介すると、生麦事件の犯人を斬首する際にアーネスト・サトウは立ち会っている。執行人たちが斬首された胴体を抱え、どくどくと滴り落ちる血を穴のなかに絞り出すという描写がある。これも日本人なら、「斬首に立ち会った」と一言で済ませてしまうような場面だろう。

 日本を離れる際に、涙を流したとあるが、日本が好きになりすぎて帰化というところまでは踏み込んでいないのも、ある意味心地よい。いったん英国に帰国した後、シャム、ウルグアイ、モロッコにも駐在領事として赴任している。
 しかしアーネスト・サトウにとっての日本は、外交官という仕事人にとって、やりがいのある任地であったことに間違いないだろう。
 ちなみに「サトウ」姓は元を辿っていくと、スラヴ系に淵源があるらしく、決して「佐藤」からのものではないらしい。


2016年10月29日土曜日

「空気」が決断する風景、日本

 昨今、豊洲新市場移転問題で、誰が地下空間を承認したのか、の調査で、小池百合子知事が記者会見で、山本七平の『「空気」の研究』(カギカッコの付け方が面倒臭いわ!)を引用し、「都庁役人の空気」が決めた、と個人の特定と追求を断念したかのような発言をした。(その後は、市場長更迭などの大雑把な処分は下したようではあるが)

 この「空気が決めた」発言はメディアでも異論が上がってはいたが、私はみょうに「さもあらん」と静かに納得してしまったのである。
 というのは、こういう問題が論じられる際にかならずと言っていいほど引用される『「空気」の研究』もあるが、しかし私はそれ以前に、五味川純平の「御前会議」が私の理解の根底にあったためだ。

 開戦を決めた御前会議、そもそも著者は御前会議を「天皇は一切の責任の外にある。完全無責任者の臨席によって最高権威づけられる御前会議での決定は、誰の、如何なる責任に帰属するかが、まったく明らかではない。不思議な制度というほかはないであろう」と定義し、さらに天皇のスタンスにさらに言及している。つまり「政治と統帥が完全に分立していて、この両者が帰属し、この両者を統裁すべき立場にある天皇が、政治的にも統帥上も何の責任も負わずに済むという制度が、信じ難いほどの誤りを生む因であった」と。

 そして、この「天皇」を「東京都都知事」に置き換えてみると、豊洲新市場の「盛土問題」は、誰が決済したのかということが、そのメカニズムが色鮮やかに浮かび上がってくるように思える。
 私はそのメカニズムの是非を問いたいわけではない。日本人とはそういうものだ、という諦念を心のどこかに持っているだけなのだ。この諦念は、「御前会議」を読み終えることで深く私の裡に根付いたと言ってよいように思う。