2016年10月31日月曜日

明治チェルシーの唄(CD) 

 このCDは当時明治製菓の関係者に、かなり無理を言ってもらった。それほどまでに、明治チェルシーのこのCMソングが好きだった。このCDには1971年のシモンズから2003年のCHEMISTRYまで16人のシンガーによって歌い継がれ、さらにカラオケバージョンが4つオマケで収録されている。

 このCD当初は非売品だったはず。いまふと思い立ってアマゾンで検索してみると、何と販売されていたのだ。この唄を聴くと、過ぎ去ったそれぞれの時代の情景が記憶の底から蘇ってくる。そう言えばこの曲も小林亜星の作曲だ。(まだご存命か?)
 40年以上も商品が続き、CMソングも名曲として心に残っているって、凄いことじゃないか、、。
 チェルシーはコンビニでこそ見かけることはほとんどなくなったが、少なくともSEIYUドットコムではふつうに販売されている。小学校時代の遠足の必需品だった「カルミン」が販売終了したいま、時代を超えて残っていてほしいお菓子であり、CMソングである。


2016年10月30日日曜日

「一外交官の見た明治維新」 アーネスト・サトウ

 江戸時代末期から明治初期にかけて、欧米から多くの外交官、学者、実業家が日本に入り、多くの手記を残した。その多くは日本国内でも出版され、いまでも私たちは目を通すことができる。
 私の本棚を見ても、「長崎伝習所の日々」(カッテンディーケ)、「大君の都ー幕末日本滞在記」(ラザフォード・オールコック)、「日本その日その日」(モース)、「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」(ホーレス・ケプロン)が並んでいるのだ。

 しかしその中でも他を圧して面白かったのが、この「一外交官の見た明治維新」アーネスト・サトウ著だ。上下巻に分かれた本書は、著者が1862年(文久2)に英国外交官として来日し、1869年(明治2)に英国に帰国するまでの滞在記だ。
 サトウは孝明帝、明治帝をはじめとする明治維新の立役者西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文や幕府側の徳川慶喜、勝海舟などにも多くの面談を重ね、手記に残した。

 これほどの会談を重ねることができたその背景としてサトウの天才的とも言える語学力があったことは否めない。それまでの通訳はオランダ語をあいだに入れ、あるいは中国語をあいだに入れと、実にまどろっこしく、コミュニケーションに時間を要した。
 事実、1854年(嘉永7)に締結した「日米和親条約」も、英語版と日本語版のあいだに中国語版が介在して締結されたことはあまり知られていない。アーネスト・サトウがこの慣習を打ち破ったのである。本格的な日本語の習得は日本に入ってからのようであるが、このような天才的語学力を持った人によっての手記は、なによりも描写が詳細であるし、現実感を持つ。

 たとえば孝明帝は、白化粧に引眉し、おでこに朧上の墨眉を描ていて、下顎前突、吃音だったと外観の描写が詳細だ。日本人の記録ではまず見られない。
 これは別書になるが、外国人ジャーナリストが、昭和天皇の知能レベルにまで及んでいる手記を読んだことがあるが、日本人にとっては不敬の領域まで切り込んでいることが、読者に現実感を与えているのかも知れない。

 ついでにもう一つ、枝葉的なところを紹介すると、生麦事件の犯人を斬首する際にアーネスト・サトウは立ち会っている。執行人たちが斬首された胴体を抱え、どくどくと滴り落ちる血を穴のなかに絞り出すという描写がある。これも日本人なら、「斬首に立ち会った」と一言で済ませてしまうような場面だろう。

 日本を離れる際に、涙を流したとあるが、日本が好きになりすぎて帰化というところまでは踏み込んでいないのも、ある意味心地よい。いったん英国に帰国した後、シャム、ウルグアイ、モロッコにも駐在領事として赴任している。
 しかしアーネスト・サトウにとっての日本は、外交官という仕事人にとって、やりがいのある任地であったことに間違いないだろう。
 ちなみに「サトウ」姓は元を辿っていくと、スラヴ系に淵源があるらしく、決して「佐藤」からのものではないらしい。


2016年10月29日土曜日

「空気」が決断する風景、日本

 昨今、豊洲新市場移転問題で、誰が地下空間を承認したのか、の調査で、小池百合子知事が記者会見で、山本七平の『「空気」の研究』(カギカッコの付け方が面倒臭いわ!)を引用し、「都庁役人の空気」が決めた、と個人の特定と追求を断念したかのような発言をした。(その後は、市場長更迭などの大雑把な処分は下したようではあるが)

 この「空気が決めた」発言はメディアでも異論が上がってはいたが、私はみょうに「さもあらん」と静かに納得してしまったのである。
 というのは、こういう問題が論じられる際にかならずと言っていいほど引用される『「空気」の研究』もあるが、しかし私はそれ以前に、五味川純平の「御前会議」が私の理解の根底にあったためだ。

 開戦を決めた御前会議、そもそも著者は御前会議を「天皇は一切の責任の外にある。完全無責任者の臨席によって最高権威づけられる御前会議での決定は、誰の、如何なる責任に帰属するかが、まったく明らかではない。不思議な制度というほかはないであろう」と定義し、さらに天皇のスタンスにさらに言及している。つまり「政治と統帥が完全に分立していて、この両者が帰属し、この両者を統裁すべき立場にある天皇が、政治的にも統帥上も何の責任も負わずに済むという制度が、信じ難いほどの誤りを生む因であった」と。

 そして、この「天皇」を「東京都都知事」に置き換えてみると、豊洲新市場の「盛土問題」は、誰が決済したのかということが、そのメカニズムが色鮮やかに浮かび上がってくるように思える。
 私はそのメカニズムの是非を問いたいわけではない。日本人とはそういうものだ、という諦念を心のどこかに持っているだけなのだ。この諦念は、「御前会議」を読み終えることで深く私の裡に根付いたと言ってよいように思う。


2016年10月28日金曜日

インドの大地が発光する『神秘主義としてのエロス』〜『愛欲の精神史』 山折哲雄

 週刊文春でいまも連載中の伊集院静の「悩むが花」だったと思うが、愛読書として紹介された中に、『愛欲の精神史』があったと記憶している。山折哲雄という学者の名はここでインプットされた。

 時系列的前後関係ははっきりとした記憶はないが、山折哲雄が2013年の「新潮45」3月号で「皇太子殿下ご退位なさいませ」という衝撃的とも言えるタイトルの文章を寄稿したことは記憶に新しい。どれくらい衝撃的であったかは、メディアで紹介され、さっそく近くのダイエー6階の本屋に駆けつけたときには、すでに掲載誌は売り切れ、その足で学大前の恭文堂書店に遠征。売り場にただ一冊残ったと思われる一冊を、ふだん本にはまったく縁遠そうな老婆が、ずっとその文章を立ち読みしていたくらいのものだった。この老婆がどんな思いをもって、この「皇太子殿下へのご退位の薦め」を読んでいたかは分からないが、かなりの時間微動だにせずに読み入っていたのだ。

 もう一つ寄り道の話になるが、かつて勤めていた職場に頭にターバンを巻いたシーク教徒で、見上げるような大柄のインド人が留学してきた。二十代だったか、三十代だったか。このインド人が何よりも強烈だったのは、その体臭だった。とにかく悶絶しかけたほどの体臭だったのだ。しかし慣れというのは怖ろしいもので、その後(どれくらいの時間が必要だったかは覚えていないが)ふつうに冗談を交わせる相手にはなった。

 私はインドの話題がでると、今でもかならずこのインド人の体臭が頭を過る。このインド人のせいで、自分はある意味「匂いフェチ」になってしまったのかも知れない、と考えてしまうのだ。

「愛欲の精神史」はその<匂い>からはじまる。Ⅰ.性愛と狂躁ののインド 第一章インドの風の一節を紹介したい。この学者がインドを訪れた際の記述。

しかしながら、全く唐突に襲いかかってきたとしかいいようのないインドの匂いについてだけは、ほとんど私の想像の範囲を超えていた。〜その匂いというのは、かならずしも体臭とか食物の味とかにかかわる個別の匂いのことを言っているのではない。むろんそれらを含めてのことであるが、それ以上に、インドという大体が全体としてその内部に孕んでいる内部の凝集体といったものが、圧倒的な力で私を推し包んでしまったというほかない

そしてつぎの一節へと言葉はつづく。
思えば、大地に触れるという言葉を、私はどれほど誤解してきたであろうか。インドが本来的に持っていた強烈な匂いや音が、そのことをあらためてわたしに突きつけ、私の単なる視覚的な認識や感覚の頼りなさを白日のもとにさらけだしてしまったのである」と結んでいる。

 そして、インド思想の根幹をなす「空」と「縁起」という観念が、この強烈なインドの大地だからこそ生まれ、育まれてきた、という確信を得たのである。
※「空」は西洋風の虚無ではなく、むしろその逆で、万有が自在に通う空、無害無辺、無尽蔵の心の宇宙である、とこの著者は記述している。

 そして本書の主要課題は第三章「インドのエロスと神秘」から本格的に展開し、熱をおびてくる。ウェーバを通して西洋的な視点から「インド神秘主義としてのエロス」を鳥瞰する。
 これをこの著者は
ローマの教会は神の理性によって与えられた秩序ある世界(宇宙)を構成している。これに対して「神秘的な熱狂」という宗教形態は、神の理性(摂理)を逸脱した秩序なき愛の浸透によって成り立っている。それを砕いて言えば、愛の無差別主義ということになあるだろう」としているのだ。

 本書は中盤には「密教的エロスの展開」へと記述は展開し、空海を巡る法脈にも紹介がおよぶ。そしてその法脈がインド密教「サンヴァラ密教」に基盤することも伝えている。

 読み終えたところで本書を振り返ると、インドの数千年のおよぶ思想の蓄積が日本の古代にどのような影響を与えたのか、インドの宗教的エロスが源氏物語をはじめとする古典文学の根流に受け継がれているのかを伝えているのが印象的だった。

 

2016年10月26日水曜日

サイードの「晩年のスタイル」とバッハ、グレン・グールド

 この本は2007年の発刊時に週刊誌の書評を見て買い求め、表紙を開くこともなく長い間埃まりれになって書棚に並べられていた本である。そして、その後の私の人生の劇変のなかで何度かの転居を経ても、処分を免れ、私の脇で生き伸びてきた本である。

 サイードという作者がどのような人物なのかにも興味も持たず、書評を見て購入とは書いたが、その書評をななめに読み、「晩年のスタイル」というタイトルだけに共鳴し、今後の老人の生き方指南書、と勝手に解釈した結果だったと思う。当時、「暴走老人」なる言葉がメディアに踊っていたことにも、自分はそうなるまい、と戒めの書としての期待もあったか。

 2015年(つまり去年)初夏、読みはじめた。
 私にとっては、グレン・グールドというピアノ演奏家を知ったのが最大の収穫だった。

 そもそも本書の原題「ON LATE STYLE」のLATEはLATENESS「時候に遅れた」、時流には乗らない独自性から創造性へ、と解釈するすることで理解できる。グレン・グールドもサイードのそのようなスポットの当て方で紹介された一人である。
 グレン・グールドの章を読むのを中断し、アマゾンでグールドのCDをとり急ぎ取り寄せ、「グルドベルグ変奏曲」をはじめとする、10枚ほど適当に選び、これらを聴いた。「グルドベルグ変奏曲」は、他の演奏家に比べ、ピアノの鍵盤を叩く音が、一音一音鋭く建って来るように聴こえた。クラシックにはほとんど縁遠かった、ど素人の私が聴いてもそう聴こた。

 そして何よりも驚いたのは、演奏中、何かが憑依したように唸りながら鍵盤を叩いていたことである。グールドを見出したプロデューサーは、この唸りを止めるように何度も説得したようであるが、グールドが止めることはなかったという。
 そしてこの唸り声がグールドの演奏のスタイルとなった。ピアノの椅子の高さも脚を自分で切り落とし、満足する高さを確保し、鍵盤に覆いかぶさるようにして演奏した。
 この話を読んだときに、棟方志功が版画を掘るときの、版木に覆いかぶさるような鬼気迫る姿勢とどこか重なったのである。
 由里幸子さんという方が、「ブックアサヒ・ドットコム」の中で、「グレン・グールド演奏のバッハの音楽は、時代錯誤的であるとともに自己創造性を誇る」という本書の一節を紹介しているが、私もまさにそのように感じた。
 またネットでひろった別の方の書評に「創造的反復・創造的追体験」をキーワードにグールドの音楽を考える。J・S・バッハは時代の流れに乗らなかったインヴェンション(バロックのジャンル、ピアノの学習用教材として利用されることが多い)の作曲家であり、グールドはバッハの対位法的な世界を再インヴェンションによって構築しているのではないか。グールドとバッハを繋ぐ奇跡の一線はそのインヴェンションにこそある。と書いていた。


2016年10月24日月曜日

フジテレビを巡る凋落論

 昨日、敬愛する日刊サイゾーに「 ”王者はなぜ、玉座から引きずり降ろされた?関係者が独白『フジテレビ凋落の全内幕』とタイトルされた記事が載った。
http://www.cyzo.com/2016/10/post_29998_entry_2.html

 フジテレビの凋落は、ソニーとともに二大没落大企業?としてメディアに報じられはじめて久しい。一方のソニーは業績の恢復も伝えられているが、フジにはその兆候がまったく見えない、世間の評価は大方こんなところに(いまのところ)落ち着いている。

 かつてフジが河田町にあったころ、事業局に出入りしていた時期がある。たけしがさんまのレンジローバーをボコボコにしていたころだ(これはyoutubeでいまでも閲覧可能)。
 このころの本館は玄関正面の美人が並ぶ受付に立ち寄った記憶がない。勝手に行ってくれ、的な扱いで、自由に館内を歩きまわれたと記憶している。警備員も立っていなかったのではないか。ときにはオンエアー中のスタジオに潜り込んだこともあったような、。「アナウンス部の八木亜希子さんお願いします」「はーい、八木です♬」などという今ではあり得ない業務電話の取次ぎも交換手を通してすることができた。いまは美人女子アナに取次いでもらう機会がないから分かんないけど、多分、そんなに簡単ではないでしょ、と思う。

(※ちなみに、いまのお台場はどうなっているかと言うと、受付でパスを発行され、セキュリティゲートにそのパスを通さないと館内には入れない。つまりガチガチに要塞化されているのだ。しかし、大手町を一巡りすれば、セキュリティゲートはいまどきのどのビルにも設置されているし、保険屋のおばちゃんが昔、各部署のデスクまで営業できたという話も、いまどきこれを強行したら不法侵入で逮捕されるに違いない)
 時代全体が駘蕩としていた良き時代だったということになるのだろう。

 おっと、この情報はフジの凋落には関係ない。テレビ局の収益源たる番組コンテンツの不出来こそ凋落の淵源として、個人的な感想を述べたい。

 何よりもバラエティ、報道情報番組系がおしなべて面白くない。自分は見ないがドラマも評判が悪く、ネットで叩かれているものが多い。フジはどこで栄光の時代の番組作りの感性を置き忘れてしまったのか。

「とくダネ!」は小倉智昭が自分に興味のないネタにはあからさまにクソつまらない顔をするし、ツッコミも薄いのが鬱陶しい。この傾向は「直撃LIVE グッデイ」の安藤優子にも引き継がれる。この二人は興味のないネタに対して、クドいようだが、冷たすぎる。
(※「ひるおび!」の恵俊彰を見よ!どのネタも一生懸命進行しているぞ!!)

 夕方の「みんなのニュース」は生野陽子を見ているだけでイライラするし、夜のゴールデンタイムに突入、リモコンの「番組表」のボタンを押して、いちおうフジをチェックするが、まずこの歳で見たいと思うものが、いまのフジにはない。「VS嵐」なんていう、お遊戯番組、嵐のファン以外誰が見るんだよ。

 いや、まったく見るべき番組がひとつもなくなったわけではない。
「ダウンタウンなう」は芸能有名人の人となりを引き出す、坂上忍の技術、それにボケをかます松本、酒を飲めないハマちゃんの触られるまで喋らない絶妙のバランスがいい。
「さんまのお笑い向上委員会」も一流芸人たちのカオス感がいい。しかし、いまのフジには戦えるコンテンツはこれしかない。
 全盛を誇る日テレを少しは参考にしたらと思う。いや素人が心配する前に、十分研究を尽くしているのだろう。しかし今のところ、その成果が見えていない。
 冒頭のサイゾーの記事、日テレとフジの差は「視聴者の立場に立つ番組作り」と「視聴者のための番組作り」の差だと指定している。これは天と地ほどの開きがあるという。


2016年10月23日日曜日

立原正秋と藤沢周平をつなぐ糸

 三十代の前半に立原正秋を読み漁っていた時期がある。角川書店から「立原正秋全集」全二十四巻が配本されていたころだ。配本日になる都度、当時新宿住友ビルの地下商店街にあった紀伊国屋書店に取りに行っていた。(※:余談になるが、全部揃ったこの全集本は後年事情があって、すべて散逸してしまった。)
 「帰路」にはちょっとした思い出がある。その頃パリで仕事があり、飛行機の中と滞在中のパリの安ホテルのベッドで読んだ記憶がある。この作品はヨーロッパに取材した作品で(トレドだったか?)日本文化を継承する日本人の帰路を主人公が考える、というテーマ。読み手として、作品の描く環境に自分を置いてみたい、とのこっ恥ずかしいほど感傷的な思いで、旅のカバンに入れたように記憶している。
 この作品を執筆中すでに食道癌に侵されていた立原は、満足な食事ができなかった状態にあったらしく、美食家立原のそれまでの作品にも増して、食い物の話がこれでもか、これでもかというほど出てくるのが印象深い。

 その後、この作家についてはアマゾンの1円本を買い漁り、主だった作品はすべて読んだ。朝鮮から帰化した立原が日本人以上に、日本の凛とした美、そして強さにこだわった、男女の描写、湘南とくに鎌倉、。とにかくこの作家が好きだった理由がその辺りにあるのは確かだ。
 その尊崇する立原の影響で、わたしは本籍地を鎌倉に定め、いまでも鎌倉に置いている。いま、立原の著作のほとんどが街なかの書店では手にはいらないが、古書はネットやブックオフでいくらでも簡単に手に入る。読み残しの作品がないか、いまでもときどき目を通している(※ウィキで昨日小学館より『立原正秋 電子全集』全26巻が配信中であることを発見した。まだ読者がいることに安堵!)

 藤沢周平を読みはじめたのはそんなに古い話ではない。時代物、歴史物と言えば司馬遼太郎くらいの認識しかなかった浅学の自分が、何を思いたったか、そのきっかけは記憶していないが、「たそがれ清兵衛」の文庫本を読み始めたのである。この文庫本には表題作の他に、「うらなり与右衛門」「ごますり甚内」「ど忘れ万六」「だんまり弥助」「かが泣き半平」「日和見与次郎」「祝い人助八」と言った、いかにも古き良き時代の、山本周五郎を踏襲するか、とでも言いたくなるような、昭和戦前的なタイトルが並んでいたが、とにかく読み始めた。

「たそがれ清兵衛」はその文庫本の突端の作品である。藩主交代を画策する筆頭家老を対立する家老の上意討ち依頼を主人公の井口清兵衛が果たす、という粗筋だが、清兵衛が司馬遼太郎の作品では味わえない武士の造形を成していることに新鮮な驚きを持った。これが自分のツボにみごとにハマってしまったのである。
 けっきょく、この作品が嚆矢となり、藤沢周平についてもいまのところ、ほぼ九割程度読破という状況である。(※ネットで調べたいくつかの「藤沢周平全著作一覧」などを参考に調査)

 そして藤沢周平が業界紙記者から文壇デビューのきっかけとなった作品「冥い海」が1971年(昭和46年)「オール読物新人賞」を受賞したときに、その選考委員の一人だったのが、何と立原正秋であった。(※ほかに南條範夫、遠藤周作、曽野綾子、駒田信二の四氏が選考委員)
 ここで、私が欽慕してやまない二人の作家が一本の糸で結ばれた。
 このことは藤沢周平の何かのエッセイの一節で知った。「立原正秋という偉い先生に選んでいただいて・・」と、藤沢周平は立原正秋の作品についてはどうも読んだことがなかったのではないかと思わせる書き方だったように記憶している。
 しかし一方で、このことによって藤沢周平をもっとも強力に推したのは立原ではないか、とも推量できるのである。もちろん当時の選評まで遡って調べたわけではないが、私はそう思い込むことにしたのである。