週刊文春でいまも連載中の伊集院静の「悩むが花」だったと思うが、愛読書として紹介された中に、『愛欲の精神史』があったと記憶している。山折哲雄という学者の名はここでインプットされた。
時系列的前後関係ははっきりとした記憶はないが、山折哲雄が2013年の「新潮45」3月号で「皇太子殿下ご退位なさいませ」という衝撃的とも言えるタイトルの文章を寄稿したことは記憶に新しい。どれくらい衝撃的であったかは、メディアで紹介され、さっそく近くのダイエー6階の本屋に駆けつけたときには、すでに掲載誌は売り切れ、その足で学大前の恭文堂書店に遠征。売り場にただ一冊残ったと思われる一冊を、ふだん本にはまったく縁遠そうな老婆が、ずっとその文章を立ち読みしていたくらいのものだった。この老婆がどんな思いをもって、この「皇太子殿下へのご退位の薦め」を読んでいたかは分からないが、かなりの時間微動だにせずに読み入っていたのだ。
もう一つ寄り道の話になるが、かつて勤めていた職場に頭にターバンを巻いたシーク教徒で、見上げるような大柄のインド人が留学してきた。二十代だったか、三十代だったか。このインド人が何よりも強烈だったのは、その体臭だった。とにかく悶絶しかけたほどの体臭だったのだ。しかし慣れというのは怖ろしいもので、その後(どれくらいの時間が必要だったかは覚えていないが)ふつうに冗談を交わせる相手にはなった。
私はインドの話題がでると、今でもかならずこのインド人の体臭が頭を過る。このインド人のせいで、自分はある意味「匂いフェチ」になってしまったのかも知れない、と考えてしまうのだ。
「愛欲の精神史」はその<匂い>からはじまる。Ⅰ.性愛と狂躁ののインド 第一章インドの風の一節を紹介したい。この学者がインドを訪れた際の記述。
「しかしながら、全く唐突に襲いかかってきたとしかいいようのないインドの匂いについてだけは、ほとんど私の想像の範囲を超えていた。〜その匂いというのは、かならずしも体臭とか食物の味とかにかかわる個別の匂いのことを言っているのではない。むろんそれらを含めてのことであるが、それ以上に、インドという大体が全体としてその内部に孕んでいる内部の凝集体といったものが、圧倒的な力で私を推し包んでしまったというほかない」
そしてつぎの一節へと言葉はつづく。
「思えば、大地に触れるという言葉を、私はどれほど誤解してきたであろうか。インドが本来的に持っていた強烈な匂いや音が、そのことをあらためてわたしに突きつけ、私の単なる視覚的な認識や感覚の頼りなさを白日のもとにさらけだしてしまったのである」と結んでいる。
そして、インド思想の根幹をなす「空」と「縁起」という観念が、この強烈なインドの大地だからこそ生まれ、育まれてきた、という確信を得たのである。
※「空」は西洋風の虚無ではなく、むしろその逆で、万有が自在に通う空、無害無辺、無尽蔵の心の宇宙である、とこの著者は記述している。
そして本書の主要課題は第三章「インドのエロスと神秘」から本格的に展開し、熱をおびてくる。ウェーバを通して西洋的な視点から「インド神秘主義としてのエロス」を鳥瞰する。
これをこの著者は
「ローマの教会は神の理性によって与えられた秩序ある世界(宇宙)を構成している。これに対して「神秘的な熱狂」という宗教形態は、神の理性(摂理)を逸脱した秩序なき愛の浸透によって成り立っている。それを砕いて言えば、愛の無差別主義ということになあるだろう」としているのだ。
本書は中盤には「密教的エロスの展開」へと記述は展開し、空海を巡る法脈にも紹介がおよぶ。そしてその法脈がインド密教「サンヴァラ密教」に基盤することも伝えている。
読み終えたところで本書を振り返ると、インドの数千年のおよぶ思想の蓄積が日本の古代にどのような影響を与えたのか、インドの宗教的エロスが源氏物語をはじめとする古典文学の根流に受け継がれているのかを伝えているのが印象的だった。
時系列的前後関係ははっきりとした記憶はないが、山折哲雄が2013年の「新潮45」3月号で「皇太子殿下ご退位なさいませ」という衝撃的とも言えるタイトルの文章を寄稿したことは記憶に新しい。どれくらい衝撃的であったかは、メディアで紹介され、さっそく近くのダイエー6階の本屋に駆けつけたときには、すでに掲載誌は売り切れ、その足で学大前の恭文堂書店に遠征。売り場にただ一冊残ったと思われる一冊を、ふだん本にはまったく縁遠そうな老婆が、ずっとその文章を立ち読みしていたくらいのものだった。この老婆がどんな思いをもって、この「皇太子殿下へのご退位の薦め」を読んでいたかは分からないが、かなりの時間微動だにせずに読み入っていたのだ。
もう一つ寄り道の話になるが、かつて勤めていた職場に頭にターバンを巻いたシーク教徒で、見上げるような大柄のインド人が留学してきた。二十代だったか、三十代だったか。このインド人が何よりも強烈だったのは、その体臭だった。とにかく悶絶しかけたほどの体臭だったのだ。しかし慣れというのは怖ろしいもので、その後(どれくらいの時間が必要だったかは覚えていないが)ふつうに冗談を交わせる相手にはなった。
私はインドの話題がでると、今でもかならずこのインド人の体臭が頭を過る。このインド人のせいで、自分はある意味「匂いフェチ」になってしまったのかも知れない、と考えてしまうのだ。
「愛欲の精神史」はその<匂い>からはじまる。Ⅰ.性愛と狂躁ののインド 第一章インドの風の一節を紹介したい。この学者がインドを訪れた際の記述。
「しかしながら、全く唐突に襲いかかってきたとしかいいようのないインドの匂いについてだけは、ほとんど私の想像の範囲を超えていた。〜その匂いというのは、かならずしも体臭とか食物の味とかにかかわる個別の匂いのことを言っているのではない。むろんそれらを含めてのことであるが、それ以上に、インドという大体が全体としてその内部に孕んでいる内部の凝集体といったものが、圧倒的な力で私を推し包んでしまったというほかない」
そしてつぎの一節へと言葉はつづく。
「思えば、大地に触れるという言葉を、私はどれほど誤解してきたであろうか。インドが本来的に持っていた強烈な匂いや音が、そのことをあらためてわたしに突きつけ、私の単なる視覚的な認識や感覚の頼りなさを白日のもとにさらけだしてしまったのである」と結んでいる。
そして、インド思想の根幹をなす「空」と「縁起」という観念が、この強烈なインドの大地だからこそ生まれ、育まれてきた、という確信を得たのである。
※「空」は西洋風の虚無ではなく、むしろその逆で、万有が自在に通う空、無害無辺、無尽蔵の心の宇宙である、とこの著者は記述している。
そして本書の主要課題は第三章「インドのエロスと神秘」から本格的に展開し、熱をおびてくる。ウェーバを通して西洋的な視点から「インド神秘主義としてのエロス」を鳥瞰する。
これをこの著者は
「ローマの教会は神の理性によって与えられた秩序ある世界(宇宙)を構成している。これに対して「神秘的な熱狂」という宗教形態は、神の理性(摂理)を逸脱した秩序なき愛の浸透によって成り立っている。それを砕いて言えば、愛の無差別主義ということになあるだろう」としているのだ。
本書は中盤には「密教的エロスの展開」へと記述は展開し、空海を巡る法脈にも紹介がおよぶ。そしてその法脈がインド密教「サンヴァラ密教」に基盤することも伝えている。
読み終えたところで本書を振り返ると、インドの数千年のおよぶ思想の蓄積が日本の古代にどのような影響を与えたのか、インドの宗教的エロスが源氏物語をはじめとする古典文学の根流に受け継がれているのかを伝えているのが印象的だった。
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