2016年10月20日木曜日

学者ではなく、職人としての医者を考える。「壬生義士伝」より

 1874年(明治7年)当時の政府・文部省が「医制」を交付し、それまでの主流であった漢方医から西洋医学への急迅な転換をはかった。そしてその翌年明治8年に医師の開業試験である「医術開業試験」が実施され始めた。 
 そういう時代背景のもと、済生学舎という医術開業試験を受験するための医学校ができた。この医学校は三十年足らずのあいだに一万人近くの医者を世に送り出した明治期の開業医の一大勢力となった。帝大医学部卒の医師たちの対局に位置していたと言ってよい。
 それはなぜか。朝敵となった諸藩出身の優秀な若者に与えられた唯一の医者への道とならざるを得なかったからである。この済生学舎の創立者長谷川泰は越後長岡藩出身の朝敵であり、野口英世も朝敵会津の生まれ、というように薩長が主力の明治政府から徹底的に差別された勢力が主流となった。明治二十七年の日清戦争ではこの済生学舎出身の現場経験を積んだ熟練の医者が重用されることになったのは、帝大医学部出や軍医学校出の医者はあまりにも現場経験がなさ過ぎると軍上層部が判断したことによる。
 二年前の二月天皇陛下は心臓バイパス手術のために東大医学部附属病院に入院された。てっきり東大医学部出身の優秀な教授が執刀するのかと思ったら、その手術で現場経験を多く積んだ順天堂大学医学部の天野篤教授(日大医学部出身)が招聘された。日本最難関の大学出身であることと、「手術の腕」が一致しないのは明治初期から脈々と受け継がれていたのだ、と「壬生義士伝」(浅田次郎著)を読んでる最中に感じた、、。

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