2018年12月31日月曜日

新起の章 一私小説書きの日乗 西村賢太

 10月26日(水)の候で。深更『芝公園六角堂跡』のゲラチェック後、手製のカレーライス。以前は”ジャワカレーの辛口”、いまは”バーモントカレーの辛口”に変更。「家のカレーがもっぱらこれだったが、やはり美味。もう五十歳になるのに、ラクに二皿いける」とある。
 その作家の作品を読み続ける原動力は作品の嗜好だけではなく、その作家の食い物の好みにも通底するものがあってこそ成立するのだと改めてしる。
 前作「不屈の章」が発刊されたのが去年の五月、それ以前のものもほぼ毎年この時期に刊行されていたと記憶しているが、今回の「新起の章」は、スケジュール的にはほぼ半年遅れ。連載が「野性時代」(角川書店)から「本の雑誌」(本の雑誌社)に乗り代わってのことと愛読者にも推察されるが、著者が前作のなかでも一行触れていたように、「野性時代」の編輯長からの連載打ち切り通告が発端であったようだ。今年が発刊されるのかヤキモキしながらアマゾンを眺めていたが、新刊予約に「新起の章」が掲出されたときは、恥ずかしながらやや小躍り、小さくガッツポーズ。
 で、冒頭の「バーモントカレーの辛口」の件り。この作品を楽しみ続けている理由の一つに、自分の食生活に通じる「B級」、「C級」感があるんじゃないのかとあらためて感じた次第。
 自分は新刊本で書籍を買うことは滅多にないのであるが、この作家のこの作品については、予約のボタンが表示された段階で、躊躇うことなくクリックしてしまう唯一といっていい作品。

 ※愚直にして含羞の作家・西村賢太が2016年6月から2018年5月までの二年の日々をつづる平成最後の私日記。『一私小説書きの日乗』『一私小説書きの日乗 憤怒の章』『一私小説書きの日乗 野性の章』『一私小説書きの日乗 遥道の章』『一私小説書きの日乗 不屈の章』に続く第6弾。現代に暮らす“文豪”の日々。(※は版元ドットコムよりコピペ)

2018年1月20日土曜日

小説日本婦道記(抄本)/ 日本婦道記(全)山本周五郎

 ここ何年か、仕事の合間合間を見て山本周五郎を読んでいる。司馬遼太郎、藤沢周平を読み尽くし、次に没頭したい作家をさがした結果が山本周五郎だったのである。前提としては多作である。自分の人生観に合うかどうかは読んでみないと分からない。とにかく多作であることが必要条件なのだ。ただ時代物の作家には大家、若手を含めて多作、駄作を書き散らしている作家はあんがい多い。最初の一冊の数行読み始めただけで諦めてしまった作家も多し、一冊だけ読んでつぎに進まなかった作家も数知れず・・。

 山本周五郎のこの「日本婦道記」の抄本「小説日本婦道記」を手に取ったのは、藤沢周平がどこかに感想を書いていたのがきっかけではなかったか。この掌編小説集の最初の作品『松の花』を読み終えたとき(掌編であるのでゆっくり読んでも小一時間もあれば読み終えることができる)、大げさかも知れないが日本人として魂を揺さぶられるような気分になったのである。武家の女性の生き方を通して、こうあるべきという強靭な倫理観が刷り込まれている。それが押しつけがましく感じないのは、しかもどこか妙に懐かしささえ感じるのは自分の祖母の記憶と重なったからかも知れない。

 抄本「小説日本婦道記」を読んだのは三年ほど前、そしていま「日本婦道記(全)」を読んでいる。半分くらいまで来た。どの一編として愚作はない掌玉集である。ぜひお薦めしたい作品である。


メモ(ウィキペディア等から引用)

・小説日本婦道記(抄本)
『松の花』をはじめ『梅咲きぬ』『尾花川』など11編を収める連作短編集。厳しい武家の定めの中で、夫のため、子のために生き抜いた日本の妻や母の、清々しいまでの強靱さと、凜然たる美しさ、哀しさがあふれる感動的な作品である。

・『日本婦道記』(1942-1946)で直木賞に推されるがこれを辞退、 生涯で一個の賞も受けることはなかった。

『婦人倶楽部』に各藩の女性を扱う「日本婦道記」(6月から12月までの7回掲載)が企画された。周五郎は3回(「松の花」*「梅咲きぬ」*「箭竹」、全くの創作で架空の女性を描いている)担当し、後の4回(すべて実在の人物で世にほどほどに知られている人物)は他の作家が担当した。『主婦之友』の「日本名婦伝」(吉川英治)に倣っている[15]

1943年(昭和18年)40歳
第17回直木賞に『日本婦道記』が選ばれるが辞退[16][17][18]。周五郎の年間執筆数の約6割~7割が講談社の雑誌に掲載され、その大半が『婦人倶楽部』の「日本婦道記」であった。この執筆が作家的飛躍に繫がったと考えられている[19]


2017年11月19日日曜日

チョムスキーが語る戦争のからくり

映画「おやすみを言いたくて」(2014」に描かれる、アフリカへの欧米大資本のアフリカ侵攻、略奪、虐殺。

映画「パトリオット」(2013)に描かれる、アメリカ人人質と拉致したシーア派武装グループの会話。

欧米諸国、大資本はアフリカ、中南米で何をしてきたのか。





2017年7月23日日曜日

一私小説書きの日乗 不屈の章 西村賢太

本書最終項で『野生時代』での三年間の連載を終えて、今後『本の雑誌』に連載場所が移ることが報告されていう。この「日乗シリーズ」の全部を新刊にて覓(もと)めている自分としては、この先も密かな愉しみが継続できそうなところにまずは安堵。


2017年4月2日日曜日

報復回路 デイヴィッド・イグネイシアス

本書の著者は、アマゾンプライムの「ワールド・オブ・ライズ」(同著者の原作)という映画を見てのことだった。著者は、ハーヴァード卒業後、WSJの中東特派員として三年間ベイルートに滞在した際の経験と知識をもとに、アメリカ、ヨーロッパ、中東諸国(イラク、イラン、サウジアラビア)を舞台にしたインテリジェンスものを多く手掛けている。

一気に読ませるストーリーの展開は、マイケル・クライトン(ジュラシックパーク等)やダン・ブラウン(インフェルノ、ダ・ヴィンチ・コード等)などのアメリカの人気作家に共通するものだ。ただ、作品の大前提として(執筆前の企画の段階データ、映画化を前提にしてストーリーが展開するという、ある意味「パターン化」というか「ルーティン化」を強く感じてしまう。否定的に申し上げているのではなく、小説を読んでいる時点で確かな映像が脳裏に浮かぶということ、展開のスピード感など、これらは私にとってはありがたいことだ。しかし小説の終章が近づくにつれ、「このままじゃ終わらんだろう。もう一捻りあるだろう」というアメリカアクション映画ファンとしての予感がものの見事に的中してしまうという、読者を裏切らない「飽き足りなさ」が残るのも確かだ。この辺の贅沢過ぎる(?)欲求はジャック・ヒギンズやケンフォレスト、古くはグレアム・グリーンなどのイギリス作家とは趣が異なるような気がする。

ただ前段で書いた、この作家の中東での経験と知識がいかんなく発揮されている作品であることに間違いはなく、裏表紙の「元CIA長官絶賛の戦慄すべき傑作」と謳っているのも頷けるのだ。


2017年3月29日水曜日

ペリー提督 日本遠征記(上)(下)

本書は、かなり以前から読みたい本として頭のなかにあった。そして先月、満を持して、意を決して購入した。(※「日本の古本屋」を介して、札幌の古本屋さんから送ってもらった。)

中学、高校時代に薄く学んだ「ペリーの来航」について自分自身の早とちりが何点もあったことがわかった。
ーまず本書の編纂についての誤解があった。
・本書は、最終的にアメリカの海軍省に提出された報告書(公文書)であるため、ペリー直筆の私信ではなく、二度の来航艦隊に参加した何人もの日記、記録類もまとめて、F.L.ホークスと言う人がまとめ上げたものであること。

※その意味で、明治維新についてこの種の外国人の視点で書かれたものの中で、私自身が最高峰と位置づける「一外交官の見た明治維新」(アーネスト・サトウ)とは内容的に比べるレベルには達していない、と感じた。本書編纂の目的が公文書として国家に奉納するというところにあったのなら、致し方ないのかも知れないが、後世の歴史好きが読むには一抹の物足らなさが残るのもたしかである。

二点目
・一度目の来航があって、二度目の来航までの数ヶ月間、アメリカに帰って出直したのかと思ったが、じつはマカオに居を構え、当時勃発していた「太平天国の乱」のアメリカ権益保護のために睨みを効かせていたこと。

三点目
・二度目の来航で「日米通商修好条約(神奈川条約)」締結まで漕ぎ着け、来航の主目的を果たしたことで、疲労困憊の極に達し、帰途香港で提督の地位を下りて、副官1名とともに陸路ヨーロッパ経由でアメリカに戻ったこと。

※本書では、インド経由としか記述されていないが、香港からどのような経路を辿ったのか、本書の主旨ではないにしろ、この経路は個人的に関心を捨てきれないでいる。

四点目
・香港から江戸に向かう途上、琉球に都合五度も立ち寄っていること、滞在中の琉球王宮との交渉事が、ある意味江戸の幕府と同程度の詳細さで記述されていること。

※燃料(石炭)、食料、水の補給という理由以外の、当時からの琉球の「地政学的戦略拠点」としての重要性が認識されていたのではないか、と感じた。

五点目
・司馬遼太郎のいくつかの小説のなかに登場する吉田松陰、金子重之助の密航計画について、本書でもかなり詳細に記述されていたこと。日本側から見れば、明治維新の思想的な背景を作った吉田松陰の個人名までは当然のことながら記載されてはいないが、こんな記述に出会った。

この日本人(吉田松陰、金子重之助)の性向を見れば、この興味深い国の前途はなんと可能性を秘めていることか、そして付言すれば、なんと有望であることか!

その数日後、士官の一行が郊外を散策しているとき、たまたま町の牢獄にさしかかり、
あの不幸な日本人が、閂を掛けられた、ひどく狭苦しい一種の檻のなかに、監禁されているのが見えた。.......彼らは自分の不運を偉大な平静さで耐え忍んでいるようで、アメリカ士官の訪問を非常に喜んで、その目を引こうとしているのが明らかに見て取れた。

 
 最初に述べたペリー本人の直筆ではないという、物足りなさは残ったが、やはり日本人として読んでおくべき歴史本であることに違いはない。

ちなみに「駅伝」の嚆矢と思える記述を紹介したい。
ー古代メキシコ人やペルー人と同じように、配達は人の足で行われるが、なかなか迅速である。郵便夫は二人一組になり、なにか事故の起こったときにもう一人が代わりを務められるようになっている。郵便夫は全速力で走り、自分たちの受け持ち区間のはずれまで
来ると、次の郵便夫が待ち構えており、近寄るやいなや郵便物を投げ出し、受け取った者は、走ってきた同僚が足を止める前に走り出すのである。

2017年2月13日月曜日

ノーム・チョムスキー 「メディア・コントロール」-正義なき民主主義と国際社会

 ノーム・チョムスキーは「知の逆転」(NHK出版新書)でその存在を知った言語学の泰斗、「巨魁」である。その業績をウィキペディアから一部引用すると

1992年のA&HCIによると、1980年から1992年にかけてチョムスキーは、存命中の学者としては最も多く、全体でも8番目に多い頻度で引用された。彼は人文社会科学諸分野における「巨魁」と表現され、2005年には投票で「世界最高の論客」 (world's top public intellectual) に選ばれた
チョムスキーは「現代言語学の父」と評され、また分析哲学の第一人者と見なされる。彼は、コンピュータサイエンス数学心理学の分野などにも影響を与えた。

 そして反体制派知識人的な範疇で括られてもいる。むしろこちらの方で世界に名を馳せていると言っても外れてはいないだろう。本書は現代政治で果たしてきたメディアの役割を断罪し、事実をもとに現代社会の政治構造を理解することを、たいへん解りやすく、アイロニカルな論調で(この辺がアメリカ人っぽいところ)記述されている。

 本書を読んでいるかたわらで、折しも安倍トランプ会談が、ワシントンとフロリダで行われているが、トランプが既存メジャー・メディアに信を置かず、もっぱらツイッターを多用しているのも、表面的には大統領選挙戦を通じてのメジャー・メディアへの”意趣返し”と捉えられなくもないが、もっと深読みをすれば、チョムスキーが言わんとしている論点を本能的に理解していた、と言うと褒めすぎか。

 日本の主要メディアにおいても、本書の論点は充分当てはまる。いかに「中立・中正」を標榜しようが、本質的にはチョムスキーが理想とする「公正なジャーナリズム」とは言い難いのではないか。

2017年1月26日木曜日

西村賢太「芝公園六角堂裏」の発売延期

 去年の11月初旬であったか、アマゾンでの購入予約のボタンが稼働しはじめた。文芸書では新刊はまずほとんど購入しない私が、唯一人その慣例をあてはめていない作家である西村賢太の久方ぶりの新作であるるので、躊躇なくそのボタンを押して手続きした。

 年が明け、数日経ってアマゾンからの発売延期を知らせるメールが届いた。その後のアマゾンの発売日の表示は2月28日となっている。約一ヶ月の順延である。その理由をネット上でさぐってみたが、同じように購入予約したユーザーの驚きの声がほとんどで、ある意味当然のことながら、なかなか見つからない。唯一「出版社と著者のあいだで、権利関係で揉め事か?」的な一文を見つけた。西村賢太ならあり得るか、とも感じたが、真実は
「一私小説書きの日乗」の新作を待つしかないんだろうが、何だかな、、。

 アマゾンのメールは予約キャンセルもできることが書かれていたが、そのまま予約を継続する(当然のことながら)。多くの西村賢太ファンは同じように待ち続けるだろう。まさか発売中止にはならんだろうね(この作家ならあり得るという危惧もまったくないわけではないので)







2016年12月17日土曜日

暗幕のゲルニカ 原田マハ

 私は当時パリで仕事をしていて、一日だけの休日を、つまり日帰りでパリ、バルセロナ往復を企てた。当時インターネットなどもなく、パリ市内のどこを彷徨いたのかは記憶に定かではないが、どこかの通りに面した小さな旅行代理店のドアを開け、オルリ空港とバルセロナ・エルプラット国際空港間の往復チケットを購入した。
 当日まだ夜明け前の真っ暗な時間にホテルのフロントでタクシーを呼んでもらい、オルリに向かった。空港ビルから飛行機まではトレーラー式のバスだったことは、このことは数十年経ったいまでも鮮明に覚えている。

 パリからバルセロナまでは二時間ちょっとだ。(東京、沖縄間くらいか?)地中海沿岸を舐めるようにして高度を下げ、空港に着いた。空港を出てタクシー乗り場に向かう。ここの部分は記憶がおぼろ状態なのだが、運転手と一日貸切りの交渉をした。スペイン語も、フランス語もしゃべらないので、英語での交渉だったのだろう。

 そして交渉妥結、まずは、この弾丸旅行の一番の目的であるピカソ国立美術館を目指した。じつを言うと、この年の何年か前にニューヨークのMoMA(近代美術館)で「ゲルニカ」を見ていた。観ている者を圧倒するその迫力に、まさに息を呑む思いで立ち竦んでしまったのだ。この場面は数十年経ったいまでも記憶が鮮明だ。
 そのときの強靭な記憶が、もう一度「ゲルニカ」を観たいという気持ちを燃やし続け、ずっと私の裡に燻りつづける源となっていたのだ。この間に、「ゲルニカ」はアメリカMoMAからスペイン・バルセロナの国立ピカソ美術館に返還された(年譜を見ると1981年のことだったようだ)。よしバルセロナに「ゲルニカ」を見に行こう、それがパリからやって来た理由というわけだ。

 そしてピカソ美術館に着いた。が何と「本日休館」の表示が立てかけてあるではないか。ピカソ美術館は月曜日が定休日であることを美術館の玄関の前ではじめて知ったのであった。延泊するだけの時間的余裕もなく、やむなく諦めるよりほかにすべはなかった。そうして、その日の予定はすべてガウディの建築群巡りに充てることになってしまったのである。という経緯が、この「暗幕のゲルニカ」を読み始める直前までの私の理解であり、記憶であった。

 そしてこの本ではじめて「ゲルニカ」が返還されたのは、バルセロナのピカソ国立美術館ではなく、何とマドリードのプラド美術館、そして1992年にソフィア・レイナ芸術センターに移管されたことを知る(バルセロナ五輪開催の年だ)。これはある意味、大きな衝撃だった。
 「ゲルニカ」がピカソ美術館に返還されたという、当時私が掴んだ情報がどこから齎されたものか、今となっては知るべくもないが、しつこいが、これはほんとうに衝撃だった。

 「暗幕のゲルニカ」は2016年下期の直木賞候補作品にノミネートされたが、受賞は逃した。私にとっては充分読みのめるだけの力を持った作品であったが残念なことではある。






※1962年のピカソ、どこかブルース・ウィリス風じゃないか?

2016年12月2日金曜日

「知の逆転」インタビュアー吉成真由美の価値

 実はこの「知の逆転」、二年ほど前に一度読了しているのだが、このときに受けた興奮がその後ずっと記憶の奥底で沸々と沸き続けていた。読み終わった本自体は地下のトランクルーム内の書棚に並べてあるのだが、数日前にアマゾンで何気にこの本を検索してみたら、表紙のデザインが新装されているではないか。しかもプライム枠(当日配送枠)それだけの理由で、私としてはめずらしく新刊注文してしまったのである。
 何度も言うようであるが、同じ本が地下に眠っているのに、、。
注文当日の夜届いた本を開封すると、本の帯に「20万部突破」のゴシックの大きなコピーが堂々と謳われている。この種のジャンルで20万部というのは異例ではないのだろうか。本の世界でもやはり「本物」は評価され、買われるものだと改めて思う。

 現代世界最高の叡智6人、「銃・病原菌・鉄」の著者で進化生物学者のジャレド・ダイアモンド、言語学者ノーム・チョムスキー、神経科医オリバー・サックス、「人工知能の父」マービン・ミンスキー、数学者であり企業家トム・レイトン、DNA分子構造の共同発見者で分子生物学者ジェームズ・ワトソン。
 この6人にサイエンスジャーナリスト吉成真由美がインタビューし、纏められている。
今回私は、インタビューの聴き手であり、編集も主導したと思われるこの吉成真由美に注目したい。この本が売れたのは、それぞれの叡智が紡ぎ出す言葉の重み、新鮮な驚きということもあるがあ、吉成が果たした役割もかなり大きいのではないかと思っているのだ。

 この場での不適切をあえて言うならば、例えばテレビのバラエティー、芸人たちの機関銃を撃ちまくるようなやり取り、ライブではその魅力が半減してしまうということをご存知だろうか。つまり「編集」という番組作りての技が加わってこその番組成立なのである。特に最近視聴率が好調な日テレ系のバラエティー番組についてはとくのそう感じている。

 本書においては、このインタビュアー吉成真由美こそ、隠れた主役であり、ディレクターだ。今日現在ウィキペディアにも彼女の解説ページは見られないので、プロフィールは限られたものしか分からないが、ハーバード大学大学院心理学部脳科学を専攻した元NHKディレクターで、ノーベル医学生理学賞受賞者利根川進とインタビューで知り合い、その後結婚したという。ある意味、利根川進も惚れ込むほどの魅力と知性を持った女性なのだろう。

<備忘録>二年前の読書メモ

★「成長の限界」に達しつつあるかという点については、まさにその通りで、すでに成長の限界に達していると言わざるを得ません。世界の森林の伐採の限界、世界の漁場は開発され尽くした。あと20~30年もすれば、さらに30億人もの人間が大量消費するようになって、資源の枯渇に拍車がかかる。(ジャレド・ダイアモンド)

★ 日本は残念ながら世界漁場における過剰捕獲国の一つであり、世界の漁場安定化にためにリーダーシップを発揮すべき立場であるのに、まだそうしていない。これが現代日本の矛盾点です。(ジャレド・ダイアモンド)

★ アメリカ最大の民間輸出品目は、民間航空機でしょうが、民間航空機とは、要するに改良を加えた爆撃機のことですね。唯一市場原理だけで動いているのが金融部門です。だから何度も破綻する。世界を括目させたアメリカの大量生産システムも、政府の防衛部門によって開発された。(ノーム・チョムスキー)

★ 科学の歴史を振り返ってみると、叡智というものは、アイザック・ニュートン、ジョン・フォン・ノイマン、アラン・チューリング、アインシュタイン、などの「個人知能」によってもたらされているのがわかります。わずか100人の個人が、知的革命によって西欧の科学と言うものを形作ってきたわけで、大衆の「集合知能」のほうは、逆に科学を何百年も停滞させてきたのです。(マービン・ミンスキー)

★ 問題は研究者がロボットに人間のまねをさせることに血道をあげているということ、つまり単に「それらしく見える」だけの表面的な真似をさせることに夢中になっているというところにあります。なぜ福島原発にロボットを送りこんで作業させられなかったか、30年前の進歩はほとんど止まっている。(マービン・ミンスキー)
⇒※パラパラをロボットに踊らせる日本人開発者?(※個人注釈です)

★「生命とはDNAに保存された情報である」(ジェームズ・ワトソン)

さて二回目、読み始めようか、、、。

2016年11月24日木曜日

『一私小説書きの日乗』シリーズ、西村賢太という作家

 きょう久々にアマゾンで「西村賢太」と検索を入れると、来年1月12日に新刊「芝公園六角堂跡」の予約告知が出ていたので、さっそく予約を入れる。
 じつは小説系の書籍を新刊で買うのは西村賢太だけでなのである。少なくとも私が生きている間は、この作家には生き残って欲しいという思いがあるからで、僅少とは言え、少しでも印税収入に貢献するつもりで新刊を買い続けているのである。

 西村賢太は直木賞受賞会見で「これから風俗に行こうとしていた」発言がマスコミにも多く取り上げられたことが、この作家を知った嚆矢濫觴となった。受賞作「苦役列車」が映画化されたこともあり、手にとって見ようと決めたのだが、ここからは私のルーティンに従うことにした。
 つまり興味を持った作家は、エッセイ・随筆の類から入るのである。で、手に入れたのが「一私小説書きの日乗」。これがハマってしまった。自分の物書き生活を日々断片メモ書き程度の文章で書き綴っただけのもの、であるはずなのに、夕方仕事を終えて、コーヒーでも飲みながら読むと、緊張した脳神経が解きほぐされてゆくような解放感を覚えるのだ。
 このシリーズ、刊行ごとに何かが進展するわけではなく、「五流作家」を自称する一私小説書きの西村賢太の厭きるほど同じように繰り返される「日乗」が描かれる。イジられ役の新潮社田畑氏、天敵の同じく新潮社の矢野氏という現役の本物編集者はこのシリーズには欠かせない役者達だ。編集者たちとの打ち合わせ終了後の会食場所鶯谷の「信濃路」、早稲田鶴巻町の「砂場」、朝方原稿執筆後のジャンクフードをあてにした宝焼酎「純」も舞台装置として重要な役割を果たし、自らが師と仰ぐ藤澤清造の造語「買淫」行動後のレビュー「きょうは大当たり」「きょうはハズレ」などにもお相手のイメージをつい夢想してしまう。西村賢太の作家の日乗はこれらのルーティンの繰り返しだ。

 これはあくまでも私の裡だけの話だが、このシリーズはチェホフの「サハリン島」に比類しているのである。この作品は、当時のロシア帝国の流刑地「サハリン島」調査にのためにシベリアを横断し、海を渡ってサハリン島に渡り、サハリン内の流刑人を預かっていた各村を巡り、ただただ淡々と人口動態調査を行い、記録した旅行記なのだが、テーマも内容もまったく違うこの二人の作家と二つの作品は、私の裡に同じリズムを刻むのだ。

※:備忘録:一私小説書きシリーズは次の通りです(まだ他にあったかな?)

「一私小説書きの日乗」「一私小説書きの日乗〜野性の章」「一私小説書きの独語」「一私小説書きの日乗〜遥道の章」「一私小説書きの日乗〜憤怒の章」


2016年11月16日水曜日

入唐求法巡礼行記 円仁の時代

 自宅からママチャリで数分のところに、平安時代からの古刹「圓融寺」がある。寺の縁起(ウェブサイトで見える)には、仁寿三年(853年)、慈覚大師による創建と謳われている。円仁のことである。
 本書はこの円仁が入唐請益僧として承和六年(839年)に、けっきょく最後の遣唐使船団になってしまったのであるが、四船で仕立てられた承和遣唐使船団の遣唐大使藤原常嗣(つねつぐ)が駕せる第一船に乗り込み、入唐して十年間求法巡礼した際の自署の旅行記である。

 四船仕立てと書いたが、この承和遣唐使船団においては、しばしば難船してその目的を達せず、との巻頭からはじまる。けっきょくその第三船はすでに過海の用に堪えることができず、第二船は副使の病故により出発できなかった。

※ウィキ記述引用
承和3年・承和4年とも渡航失敗。この過程で第一船が損傷し、大使の常嗣は副使の小野篁が乗る予定の第二船と自身の第一船を交換した。これを不服とした篁は常嗣への不信と親の介護、自身の病を挙げて渡航に不参加。流罪となった。副使不在のため藤原貞敏が現地代行。帰途、新羅船9隻を雇い帰る。第2船は帰途に南海の島に漂着。良岑長松、菅原梶成は協力し廃材を集めて船を作って大隅国に帰着した。


 結句、何やかやがあって、二船で渡航するのであるが、渡航が決まった後も、八日ほど順風を得るために途中待機し、その後ようやく東支那海に出る。しかし、ここで大嵐に出遭遇し、船の中は阿鼻叫喚の地獄絵図、荷物が流れ出し、神仏に祈る者多数、まさに乗船し現場の中にいた円仁でなければ書けなかった描写は鬼気迫るものがある。円仁の筆力が窺えるのだ。この巻頭部分を読むだけでも当時の状況、背景が垣間見れるし、どのような危機的状況下でも明晰怜悧な円仁という人物像をたどる事ができるのだ。

 本書は1955年にハーバードの教授だった(のちに駐日大使)のエドウィン・ライシャワー博士によって、明治に入って再発見された東寺写本を英訳され、海外にも広く知られる存在になった。

 帰朝後、円仁は圓融寺をはじめ、全国に多くの寺を建立して行ったが、この100年間の入唐時代が果たした役割がその後の円仁を形作った、その本人の言葉でそのことを味わえる歴史に残る名著、だと私は思っている。


2016年10月31日月曜日

明治チェルシーの唄(CD) 

 このCDは当時明治製菓の関係者に、かなり無理を言ってもらった。それほどまでに、明治チェルシーのこのCMソングが好きだった。このCDには1971年のシモンズから2003年のCHEMISTRYまで16人のシンガーによって歌い継がれ、さらにカラオケバージョンが4つオマケで収録されている。

 このCD当初は非売品だったはず。いまふと思い立ってアマゾンで検索してみると、何と販売されていたのだ。この唄を聴くと、過ぎ去ったそれぞれの時代の情景が記憶の底から蘇ってくる。そう言えばこの曲も小林亜星の作曲だ。(まだご存命か?)
 40年以上も商品が続き、CMソングも名曲として心に残っているって、凄いことじゃないか、、。
 チェルシーはコンビニでこそ見かけることはほとんどなくなったが、少なくともSEIYUドットコムではふつうに販売されている。小学校時代の遠足の必需品だった「カルミン」が販売終了したいま、時代を超えて残っていてほしいお菓子であり、CMソングである。


2016年10月30日日曜日

「一外交官の見た明治維新」 アーネスト・サトウ

 江戸時代末期から明治初期にかけて、欧米から多くの外交官、学者、実業家が日本に入り、多くの手記を残した。その多くは日本国内でも出版され、いまでも私たちは目を通すことができる。
 私の本棚を見ても、「長崎伝習所の日々」(カッテンディーケ)、「大君の都ー幕末日本滞在記」(ラザフォード・オールコック)、「日本その日その日」(モース)、「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」(ホーレス・ケプロン)が並んでいるのだ。

 しかしその中でも他を圧して面白かったのが、この「一外交官の見た明治維新」アーネスト・サトウ著だ。上下巻に分かれた本書は、著者が1862年(文久2)に英国外交官として来日し、1869年(明治2)に英国に帰国するまでの滞在記だ。
 サトウは孝明帝、明治帝をはじめとする明治維新の立役者西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文や幕府側の徳川慶喜、勝海舟などにも多くの面談を重ね、手記に残した。

 これほどの会談を重ねることができたその背景としてサトウの天才的とも言える語学力があったことは否めない。それまでの通訳はオランダ語をあいだに入れ、あるいは中国語をあいだに入れと、実にまどろっこしく、コミュニケーションに時間を要した。
 事実、1854年(嘉永7)に締結した「日米和親条約」も、英語版と日本語版のあいだに中国語版が介在して締結されたことはあまり知られていない。アーネスト・サトウがこの慣習を打ち破ったのである。本格的な日本語の習得は日本に入ってからのようであるが、このような天才的語学力を持った人によっての手記は、なによりも描写が詳細であるし、現実感を持つ。

 たとえば孝明帝は、白化粧に引眉し、おでこに朧上の墨眉を描ていて、下顎前突、吃音だったと外観の描写が詳細だ。日本人の記録ではまず見られない。
 これは別書になるが、外国人ジャーナリストが、昭和天皇の知能レベルにまで及んでいる手記を読んだことがあるが、日本人にとっては不敬の領域まで切り込んでいることが、読者に現実感を与えているのかも知れない。

 ついでにもう一つ、枝葉的なところを紹介すると、生麦事件の犯人を斬首する際にアーネスト・サトウは立ち会っている。執行人たちが斬首された胴体を抱え、どくどくと滴り落ちる血を穴のなかに絞り出すという描写がある。これも日本人なら、「斬首に立ち会った」と一言で済ませてしまうような場面だろう。

 日本を離れる際に、涙を流したとあるが、日本が好きになりすぎて帰化というところまでは踏み込んでいないのも、ある意味心地よい。いったん英国に帰国した後、シャム、ウルグアイ、モロッコにも駐在領事として赴任している。
 しかしアーネスト・サトウにとっての日本は、外交官という仕事人にとって、やりがいのある任地であったことに間違いないだろう。
 ちなみに「サトウ」姓は元を辿っていくと、スラヴ系に淵源があるらしく、決して「佐藤」からのものではないらしい。


2016年10月29日土曜日

「空気」が決断する風景、日本

 昨今、豊洲新市場移転問題で、誰が地下空間を承認したのか、の調査で、小池百合子知事が記者会見で、山本七平の『「空気」の研究』(カギカッコの付け方が面倒臭いわ!)を引用し、「都庁役人の空気」が決めた、と個人の特定と追求を断念したかのような発言をした。(その後は、市場長更迭などの大雑把な処分は下したようではあるが)

 この「空気が決めた」発言はメディアでも異論が上がってはいたが、私はみょうに「さもあらん」と静かに納得してしまったのである。
 というのは、こういう問題が論じられる際にかならずと言っていいほど引用される『「空気」の研究』もあるが、しかし私はそれ以前に、五味川純平の「御前会議」が私の理解の根底にあったためだ。

 開戦を決めた御前会議、そもそも著者は御前会議を「天皇は一切の責任の外にある。完全無責任者の臨席によって最高権威づけられる御前会議での決定は、誰の、如何なる責任に帰属するかが、まったく明らかではない。不思議な制度というほかはないであろう」と定義し、さらに天皇のスタンスにさらに言及している。つまり「政治と統帥が完全に分立していて、この両者が帰属し、この両者を統裁すべき立場にある天皇が、政治的にも統帥上も何の責任も負わずに済むという制度が、信じ難いほどの誤りを生む因であった」と。

 そして、この「天皇」を「東京都都知事」に置き換えてみると、豊洲新市場の「盛土問題」は、誰が決済したのかということが、そのメカニズムが色鮮やかに浮かび上がってくるように思える。
 私はそのメカニズムの是非を問いたいわけではない。日本人とはそういうものだ、という諦念を心のどこかに持っているだけなのだ。この諦念は、「御前会議」を読み終えることで深く私の裡に根付いたと言ってよいように思う。


2016年10月28日金曜日

インドの大地が発光する『神秘主義としてのエロス』〜『愛欲の精神史』 山折哲雄

 週刊文春でいまも連載中の伊集院静の「悩むが花」だったと思うが、愛読書として紹介された中に、『愛欲の精神史』があったと記憶している。山折哲雄という学者の名はここでインプットされた。

 時系列的前後関係ははっきりとした記憶はないが、山折哲雄が2013年の「新潮45」3月号で「皇太子殿下ご退位なさいませ」という衝撃的とも言えるタイトルの文章を寄稿したことは記憶に新しい。どれくらい衝撃的であったかは、メディアで紹介され、さっそく近くのダイエー6階の本屋に駆けつけたときには、すでに掲載誌は売り切れ、その足で学大前の恭文堂書店に遠征。売り場にただ一冊残ったと思われる一冊を、ふだん本にはまったく縁遠そうな老婆が、ずっとその文章を立ち読みしていたくらいのものだった。この老婆がどんな思いをもって、この「皇太子殿下へのご退位の薦め」を読んでいたかは分からないが、かなりの時間微動だにせずに読み入っていたのだ。

 もう一つ寄り道の話になるが、かつて勤めていた職場に頭にターバンを巻いたシーク教徒で、見上げるような大柄のインド人が留学してきた。二十代だったか、三十代だったか。このインド人が何よりも強烈だったのは、その体臭だった。とにかく悶絶しかけたほどの体臭だったのだ。しかし慣れというのは怖ろしいもので、その後(どれくらいの時間が必要だったかは覚えていないが)ふつうに冗談を交わせる相手にはなった。

 私はインドの話題がでると、今でもかならずこのインド人の体臭が頭を過る。このインド人のせいで、自分はある意味「匂いフェチ」になってしまったのかも知れない、と考えてしまうのだ。

「愛欲の精神史」はその<匂い>からはじまる。Ⅰ.性愛と狂躁ののインド 第一章インドの風の一節を紹介したい。この学者がインドを訪れた際の記述。

しかしながら、全く唐突に襲いかかってきたとしかいいようのないインドの匂いについてだけは、ほとんど私の想像の範囲を超えていた。〜その匂いというのは、かならずしも体臭とか食物の味とかにかかわる個別の匂いのことを言っているのではない。むろんそれらを含めてのことであるが、それ以上に、インドという大体が全体としてその内部に孕んでいる内部の凝集体といったものが、圧倒的な力で私を推し包んでしまったというほかない

そしてつぎの一節へと言葉はつづく。
思えば、大地に触れるという言葉を、私はどれほど誤解してきたであろうか。インドが本来的に持っていた強烈な匂いや音が、そのことをあらためてわたしに突きつけ、私の単なる視覚的な認識や感覚の頼りなさを白日のもとにさらけだしてしまったのである」と結んでいる。

 そして、インド思想の根幹をなす「空」と「縁起」という観念が、この強烈なインドの大地だからこそ生まれ、育まれてきた、という確信を得たのである。
※「空」は西洋風の虚無ではなく、むしろその逆で、万有が自在に通う空、無害無辺、無尽蔵の心の宇宙である、とこの著者は記述している。

 そして本書の主要課題は第三章「インドのエロスと神秘」から本格的に展開し、熱をおびてくる。ウェーバを通して西洋的な視点から「インド神秘主義としてのエロス」を鳥瞰する。
 これをこの著者は
ローマの教会は神の理性によって与えられた秩序ある世界(宇宙)を構成している。これに対して「神秘的な熱狂」という宗教形態は、神の理性(摂理)を逸脱した秩序なき愛の浸透によって成り立っている。それを砕いて言えば、愛の無差別主義ということになあるだろう」としているのだ。

 本書は中盤には「密教的エロスの展開」へと記述は展開し、空海を巡る法脈にも紹介がおよぶ。そしてその法脈がインド密教「サンヴァラ密教」に基盤することも伝えている。

 読み終えたところで本書を振り返ると、インドの数千年のおよぶ思想の蓄積が日本の古代にどのような影響を与えたのか、インドの宗教的エロスが源氏物語をはじめとする古典文学の根流に受け継がれているのかを伝えているのが印象的だった。

 

2016年10月26日水曜日

サイードの「晩年のスタイル」とバッハ、グレン・グールド

 この本は2007年の発刊時に週刊誌の書評を見て買い求め、表紙を開くこともなく長い間埃まりれになって書棚に並べられていた本である。そして、その後の私の人生の劇変のなかで何度かの転居を経ても、処分を免れ、私の脇で生き伸びてきた本である。

 サイードという作者がどのような人物なのかにも興味も持たず、書評を見て購入とは書いたが、その書評をななめに読み、「晩年のスタイル」というタイトルだけに共鳴し、今後の老人の生き方指南書、と勝手に解釈した結果だったと思う。当時、「暴走老人」なる言葉がメディアに踊っていたことにも、自分はそうなるまい、と戒めの書としての期待もあったか。

 2015年(つまり去年)初夏、読みはじめた。
 私にとっては、グレン・グールドというピアノ演奏家を知ったのが最大の収穫だった。

 そもそも本書の原題「ON LATE STYLE」のLATEはLATENESS「時候に遅れた」、時流には乗らない独自性から創造性へ、と解釈するすることで理解できる。グレン・グールドもサイードのそのようなスポットの当て方で紹介された一人である。
 グレン・グールドの章を読むのを中断し、アマゾンでグールドのCDをとり急ぎ取り寄せ、「グルドベルグ変奏曲」をはじめとする、10枚ほど適当に選び、これらを聴いた。「グルドベルグ変奏曲」は、他の演奏家に比べ、ピアノの鍵盤を叩く音が、一音一音鋭く建って来るように聴こえた。クラシックにはほとんど縁遠かった、ど素人の私が聴いてもそう聴こた。

 そして何よりも驚いたのは、演奏中、何かが憑依したように唸りながら鍵盤を叩いていたことである。グールドを見出したプロデューサーは、この唸りを止めるように何度も説得したようであるが、グールドが止めることはなかったという。
 そしてこの唸り声がグールドの演奏のスタイルとなった。ピアノの椅子の高さも脚を自分で切り落とし、満足する高さを確保し、鍵盤に覆いかぶさるようにして演奏した。
 この話を読んだときに、棟方志功が版画を掘るときの、版木に覆いかぶさるような鬼気迫る姿勢とどこか重なったのである。
 由里幸子さんという方が、「ブックアサヒ・ドットコム」の中で、「グレン・グールド演奏のバッハの音楽は、時代錯誤的であるとともに自己創造性を誇る」という本書の一節を紹介しているが、私もまさにそのように感じた。
 またネットでひろった別の方の書評に「創造的反復・創造的追体験」をキーワードにグールドの音楽を考える。J・S・バッハは時代の流れに乗らなかったインヴェンション(バロックのジャンル、ピアノの学習用教材として利用されることが多い)の作曲家であり、グールドはバッハの対位法的な世界を再インヴェンションによって構築しているのではないか。グールドとバッハを繋ぐ奇跡の一線はそのインヴェンションにこそある。と書いていた。


2016年10月24日月曜日

フジテレビを巡る凋落論

 昨日、敬愛する日刊サイゾーに「 ”王者はなぜ、玉座から引きずり降ろされた?関係者が独白『フジテレビ凋落の全内幕』とタイトルされた記事が載った。
http://www.cyzo.com/2016/10/post_29998_entry_2.html

 フジテレビの凋落は、ソニーとともに二大没落大企業?としてメディアに報じられはじめて久しい。一方のソニーは業績の恢復も伝えられているが、フジにはその兆候がまったく見えない、世間の評価は大方こんなところに(いまのところ)落ち着いている。

 かつてフジが河田町にあったころ、事業局に出入りしていた時期がある。たけしがさんまのレンジローバーをボコボコにしていたころだ(これはyoutubeでいまでも閲覧可能)。
 このころの本館は玄関正面の美人が並ぶ受付に立ち寄った記憶がない。勝手に行ってくれ、的な扱いで、自由に館内を歩きまわれたと記憶している。警備員も立っていなかったのではないか。ときにはオンエアー中のスタジオに潜り込んだこともあったような、。「アナウンス部の八木亜希子さんお願いします」「はーい、八木です♬」などという今ではあり得ない業務電話の取次ぎも交換手を通してすることができた。いまは美人女子アナに取次いでもらう機会がないから分かんないけど、多分、そんなに簡単ではないでしょ、と思う。

(※ちなみに、いまのお台場はどうなっているかと言うと、受付でパスを発行され、セキュリティゲートにそのパスを通さないと館内には入れない。つまりガチガチに要塞化されているのだ。しかし、大手町を一巡りすれば、セキュリティゲートはいまどきのどのビルにも設置されているし、保険屋のおばちゃんが昔、各部署のデスクまで営業できたという話も、いまどきこれを強行したら不法侵入で逮捕されるに違いない)
 時代全体が駘蕩としていた良き時代だったということになるのだろう。

 おっと、この情報はフジの凋落には関係ない。テレビ局の収益源たる番組コンテンツの不出来こそ凋落の淵源として、個人的な感想を述べたい。

 何よりもバラエティ、報道情報番組系がおしなべて面白くない。自分は見ないがドラマも評判が悪く、ネットで叩かれているものが多い。フジはどこで栄光の時代の番組作りの感性を置き忘れてしまったのか。

「とくダネ!」は小倉智昭が自分に興味のないネタにはあからさまにクソつまらない顔をするし、ツッコミも薄いのが鬱陶しい。この傾向は「直撃LIVE グッデイ」の安藤優子にも引き継がれる。この二人は興味のないネタに対して、クドいようだが、冷たすぎる。
(※「ひるおび!」の恵俊彰を見よ!どのネタも一生懸命進行しているぞ!!)

 夕方の「みんなのニュース」は生野陽子を見ているだけでイライラするし、夜のゴールデンタイムに突入、リモコンの「番組表」のボタンを押して、いちおうフジをチェックするが、まずこの歳で見たいと思うものが、いまのフジにはない。「VS嵐」なんていう、お遊戯番組、嵐のファン以外誰が見るんだよ。

 いや、まったく見るべき番組がひとつもなくなったわけではない。
「ダウンタウンなう」は芸能有名人の人となりを引き出す、坂上忍の技術、それにボケをかます松本、酒を飲めないハマちゃんの触られるまで喋らない絶妙のバランスがいい。
「さんまのお笑い向上委員会」も一流芸人たちのカオス感がいい。しかし、いまのフジには戦えるコンテンツはこれしかない。
 全盛を誇る日テレを少しは参考にしたらと思う。いや素人が心配する前に、十分研究を尽くしているのだろう。しかし今のところ、その成果が見えていない。
 冒頭のサイゾーの記事、日テレとフジの差は「視聴者の立場に立つ番組作り」と「視聴者のための番組作り」の差だと指定している。これは天と地ほどの開きがあるという。


2016年10月23日日曜日

立原正秋と藤沢周平をつなぐ糸

 三十代の前半に立原正秋を読み漁っていた時期がある。角川書店から「立原正秋全集」全二十四巻が配本されていたころだ。配本日になる都度、当時新宿住友ビルの地下商店街にあった紀伊国屋書店に取りに行っていた。(※:余談になるが、全部揃ったこの全集本は後年事情があって、すべて散逸してしまった。)
 「帰路」にはちょっとした思い出がある。その頃パリで仕事があり、飛行機の中と滞在中のパリの安ホテルのベッドで読んだ記憶がある。この作品はヨーロッパに取材した作品で(トレドだったか?)日本文化を継承する日本人の帰路を主人公が考える、というテーマ。読み手として、作品の描く環境に自分を置いてみたい、とのこっ恥ずかしいほど感傷的な思いで、旅のカバンに入れたように記憶している。
 この作品を執筆中すでに食道癌に侵されていた立原は、満足な食事ができなかった状態にあったらしく、美食家立原のそれまでの作品にも増して、食い物の話がこれでもか、これでもかというほど出てくるのが印象深い。

 その後、この作家についてはアマゾンの1円本を買い漁り、主だった作品はすべて読んだ。朝鮮から帰化した立原が日本人以上に、日本の凛とした美、そして強さにこだわった、男女の描写、湘南とくに鎌倉、。とにかくこの作家が好きだった理由がその辺りにあるのは確かだ。
 その尊崇する立原の影響で、わたしは本籍地を鎌倉に定め、いまでも鎌倉に置いている。いま、立原の著作のほとんどが街なかの書店では手にはいらないが、古書はネットやブックオフでいくらでも簡単に手に入る。読み残しの作品がないか、いまでもときどき目を通している(※ウィキで昨日小学館より『立原正秋 電子全集』全26巻が配信中であることを発見した。まだ読者がいることに安堵!)

 藤沢周平を読みはじめたのはそんなに古い話ではない。時代物、歴史物と言えば司馬遼太郎くらいの認識しかなかった浅学の自分が、何を思いたったか、そのきっかけは記憶していないが、「たそがれ清兵衛」の文庫本を読み始めたのである。この文庫本には表題作の他に、「うらなり与右衛門」「ごますり甚内」「ど忘れ万六」「だんまり弥助」「かが泣き半平」「日和見与次郎」「祝い人助八」と言った、いかにも古き良き時代の、山本周五郎を踏襲するか、とでも言いたくなるような、昭和戦前的なタイトルが並んでいたが、とにかく読み始めた。

「たそがれ清兵衛」はその文庫本の突端の作品である。藩主交代を画策する筆頭家老を対立する家老の上意討ち依頼を主人公の井口清兵衛が果たす、という粗筋だが、清兵衛が司馬遼太郎の作品では味わえない武士の造形を成していることに新鮮な驚きを持った。これが自分のツボにみごとにハマってしまったのである。
 けっきょく、この作品が嚆矢となり、藤沢周平についてもいまのところ、ほぼ九割程度読破という状況である。(※ネットで調べたいくつかの「藤沢周平全著作一覧」などを参考に調査)

 そして藤沢周平が業界紙記者から文壇デビューのきっかけとなった作品「冥い海」が1971年(昭和46年)「オール読物新人賞」を受賞したときに、その選考委員の一人だったのが、何と立原正秋であった。(※ほかに南條範夫、遠藤周作、曽野綾子、駒田信二の四氏が選考委員)
 ここで、私が欽慕してやまない二人の作家が一本の糸で結ばれた。
 このことは藤沢周平の何かのエッセイの一節で知った。「立原正秋という偉い先生に選んでいただいて・・」と、藤沢周平は立原正秋の作品についてはどうも読んだことがなかったのではないかと思わせる書き方だったように記憶している。
 しかし一方で、このことによって藤沢周平をもっとも強力に推したのは立原ではないか、とも推量できるのである。もちろん当時の選評まで遡って調べたわけではないが、私はそう思い込むことにしたのである。


2016年10月22日土曜日

目黒シネマという映画館

 権之助坂を上って目黒駅西口に折れるその手間に「目黒シネマ」という、この界隈唯一の映画館がある。昔は自由が丘駅近くに「武蔵野館」というのがあって、足繁く通っていた時期もあったが、目黒シネマが目黒区に残された最後の1館だろう。むろん封切館ではない。二番館というのか、三番館というのか、そういう類いの映画館である。

 とある日、目黒駅前でどうしても数時間潰さねばならない事態が出来したことがあった。駅ビルの上の商店街をのぞいたりしたが、そうそう時間が経つものではない。そこでバスの窓からときどき目にしていた目黒シネマを目指した。通りの掲示板に上映中の映画が二本紹介されている。とても自分の選択肢には入り得ない映画だった。
 一つが、堺雅人主演、香川照之、広末涼子出演の「鍵泥棒のメソッド」、もう一つが朝井リョウ原作の「桐島、部活やめるってよ」。掲示板をにらみながら、そうとうの時間悩んだ。入るべきか、入らざるべきか、。やめるにしても、まだ数時間潰すあてがまるでないのだ。面白くなかったら、途中で出ればいいや、と肚を括り、地下への階段をとぼとぼ降りていった。

 自販機で入場券を買い、入れ替えを待って場内に入った。ほぼほぼ満員になったのである。意外だった。そして意外ついでだったのは、私と同じような時間潰し族と思われる、カバンを抱えた若いサラリーマン風の男が多かったことである。

 映画は二本とも面白かった。これもまた想定外だった。うっすら満足感すら感じた。階段を上がって通りに出たとき、すでに待ち合わせの時間の10分ほど前、。ちょうどいい時間潰しになったのだ。味をしめた私はここに何度も足を運んでいるが、いまだスカには当たっていない。上映する映画をセレクトしている人の目が確かのだろう。