2016年10月31日月曜日

明治チェルシーの唄(CD) 

 このCDは当時明治製菓の関係者に、かなり無理を言ってもらった。それほどまでに、明治チェルシーのこのCMソングが好きだった。このCDには1971年のシモンズから2003年のCHEMISTRYまで16人のシンガーによって歌い継がれ、さらにカラオケバージョンが4つオマケで収録されている。

 このCD当初は非売品だったはず。いまふと思い立ってアマゾンで検索してみると、何と販売されていたのだ。この唄を聴くと、過ぎ去ったそれぞれの時代の情景が記憶の底から蘇ってくる。そう言えばこの曲も小林亜星の作曲だ。(まだご存命か?)
 40年以上も商品が続き、CMソングも名曲として心に残っているって、凄いことじゃないか、、。
 チェルシーはコンビニでこそ見かけることはほとんどなくなったが、少なくともSEIYUドットコムではふつうに販売されている。小学校時代の遠足の必需品だった「カルミン」が販売終了したいま、時代を超えて残っていてほしいお菓子であり、CMソングである。


2016年10月30日日曜日

「一外交官の見た明治維新」 アーネスト・サトウ

 江戸時代末期から明治初期にかけて、欧米から多くの外交官、学者、実業家が日本に入り、多くの手記を残した。その多くは日本国内でも出版され、いまでも私たちは目を通すことができる。
 私の本棚を見ても、「長崎伝習所の日々」(カッテンディーケ)、「大君の都ー幕末日本滞在記」(ラザフォード・オールコック)、「日本その日その日」(モース)、「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」(ホーレス・ケプロン)が並んでいるのだ。

 しかしその中でも他を圧して面白かったのが、この「一外交官の見た明治維新」アーネスト・サトウ著だ。上下巻に分かれた本書は、著者が1862年(文久2)に英国外交官として来日し、1869年(明治2)に英国に帰国するまでの滞在記だ。
 サトウは孝明帝、明治帝をはじめとする明治維新の立役者西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文や幕府側の徳川慶喜、勝海舟などにも多くの面談を重ね、手記に残した。

 これほどの会談を重ねることができたその背景としてサトウの天才的とも言える語学力があったことは否めない。それまでの通訳はオランダ語をあいだに入れ、あるいは中国語をあいだに入れと、実にまどろっこしく、コミュニケーションに時間を要した。
 事実、1854年(嘉永7)に締結した「日米和親条約」も、英語版と日本語版のあいだに中国語版が介在して締結されたことはあまり知られていない。アーネスト・サトウがこの慣習を打ち破ったのである。本格的な日本語の習得は日本に入ってからのようであるが、このような天才的語学力を持った人によっての手記は、なによりも描写が詳細であるし、現実感を持つ。

 たとえば孝明帝は、白化粧に引眉し、おでこに朧上の墨眉を描ていて、下顎前突、吃音だったと外観の描写が詳細だ。日本人の記録ではまず見られない。
 これは別書になるが、外国人ジャーナリストが、昭和天皇の知能レベルにまで及んでいる手記を読んだことがあるが、日本人にとっては不敬の領域まで切り込んでいることが、読者に現実感を与えているのかも知れない。

 ついでにもう一つ、枝葉的なところを紹介すると、生麦事件の犯人を斬首する際にアーネスト・サトウは立ち会っている。執行人たちが斬首された胴体を抱え、どくどくと滴り落ちる血を穴のなかに絞り出すという描写がある。これも日本人なら、「斬首に立ち会った」と一言で済ませてしまうような場面だろう。

 日本を離れる際に、涙を流したとあるが、日本が好きになりすぎて帰化というところまでは踏み込んでいないのも、ある意味心地よい。いったん英国に帰国した後、シャム、ウルグアイ、モロッコにも駐在領事として赴任している。
 しかしアーネスト・サトウにとっての日本は、外交官という仕事人にとって、やりがいのある任地であったことに間違いないだろう。
 ちなみに「サトウ」姓は元を辿っていくと、スラヴ系に淵源があるらしく、決して「佐藤」からのものではないらしい。


2016年10月29日土曜日

「空気」が決断する風景、日本

 昨今、豊洲新市場移転問題で、誰が地下空間を承認したのか、の調査で、小池百合子知事が記者会見で、山本七平の『「空気」の研究』(カギカッコの付け方が面倒臭いわ!)を引用し、「都庁役人の空気」が決めた、と個人の特定と追求を断念したかのような発言をした。(その後は、市場長更迭などの大雑把な処分は下したようではあるが)

 この「空気が決めた」発言はメディアでも異論が上がってはいたが、私はみょうに「さもあらん」と静かに納得してしまったのである。
 というのは、こういう問題が論じられる際にかならずと言っていいほど引用される『「空気」の研究』もあるが、しかし私はそれ以前に、五味川純平の「御前会議」が私の理解の根底にあったためだ。

 開戦を決めた御前会議、そもそも著者は御前会議を「天皇は一切の責任の外にある。完全無責任者の臨席によって最高権威づけられる御前会議での決定は、誰の、如何なる責任に帰属するかが、まったく明らかではない。不思議な制度というほかはないであろう」と定義し、さらに天皇のスタンスにさらに言及している。つまり「政治と統帥が完全に分立していて、この両者が帰属し、この両者を統裁すべき立場にある天皇が、政治的にも統帥上も何の責任も負わずに済むという制度が、信じ難いほどの誤りを生む因であった」と。

 そして、この「天皇」を「東京都都知事」に置き換えてみると、豊洲新市場の「盛土問題」は、誰が決済したのかということが、そのメカニズムが色鮮やかに浮かび上がってくるように思える。
 私はそのメカニズムの是非を問いたいわけではない。日本人とはそういうものだ、という諦念を心のどこかに持っているだけなのだ。この諦念は、「御前会議」を読み終えることで深く私の裡に根付いたと言ってよいように思う。


2016年10月28日金曜日

インドの大地が発光する『神秘主義としてのエロス』〜『愛欲の精神史』 山折哲雄

 週刊文春でいまも連載中の伊集院静の「悩むが花」だったと思うが、愛読書として紹介された中に、『愛欲の精神史』があったと記憶している。山折哲雄という学者の名はここでインプットされた。

 時系列的前後関係ははっきりとした記憶はないが、山折哲雄が2013年の「新潮45」3月号で「皇太子殿下ご退位なさいませ」という衝撃的とも言えるタイトルの文章を寄稿したことは記憶に新しい。どれくらい衝撃的であったかは、メディアで紹介され、さっそく近くのダイエー6階の本屋に駆けつけたときには、すでに掲載誌は売り切れ、その足で学大前の恭文堂書店に遠征。売り場にただ一冊残ったと思われる一冊を、ふだん本にはまったく縁遠そうな老婆が、ずっとその文章を立ち読みしていたくらいのものだった。この老婆がどんな思いをもって、この「皇太子殿下へのご退位の薦め」を読んでいたかは分からないが、かなりの時間微動だにせずに読み入っていたのだ。

 もう一つ寄り道の話になるが、かつて勤めていた職場に頭にターバンを巻いたシーク教徒で、見上げるような大柄のインド人が留学してきた。二十代だったか、三十代だったか。このインド人が何よりも強烈だったのは、その体臭だった。とにかく悶絶しかけたほどの体臭だったのだ。しかし慣れというのは怖ろしいもので、その後(どれくらいの時間が必要だったかは覚えていないが)ふつうに冗談を交わせる相手にはなった。

 私はインドの話題がでると、今でもかならずこのインド人の体臭が頭を過る。このインド人のせいで、自分はある意味「匂いフェチ」になってしまったのかも知れない、と考えてしまうのだ。

「愛欲の精神史」はその<匂い>からはじまる。Ⅰ.性愛と狂躁ののインド 第一章インドの風の一節を紹介したい。この学者がインドを訪れた際の記述。

しかしながら、全く唐突に襲いかかってきたとしかいいようのないインドの匂いについてだけは、ほとんど私の想像の範囲を超えていた。〜その匂いというのは、かならずしも体臭とか食物の味とかにかかわる個別の匂いのことを言っているのではない。むろんそれらを含めてのことであるが、それ以上に、インドという大体が全体としてその内部に孕んでいる内部の凝集体といったものが、圧倒的な力で私を推し包んでしまったというほかない

そしてつぎの一節へと言葉はつづく。
思えば、大地に触れるという言葉を、私はどれほど誤解してきたであろうか。インドが本来的に持っていた強烈な匂いや音が、そのことをあらためてわたしに突きつけ、私の単なる視覚的な認識や感覚の頼りなさを白日のもとにさらけだしてしまったのである」と結んでいる。

 そして、インド思想の根幹をなす「空」と「縁起」という観念が、この強烈なインドの大地だからこそ生まれ、育まれてきた、という確信を得たのである。
※「空」は西洋風の虚無ではなく、むしろその逆で、万有が自在に通う空、無害無辺、無尽蔵の心の宇宙である、とこの著者は記述している。

 そして本書の主要課題は第三章「インドのエロスと神秘」から本格的に展開し、熱をおびてくる。ウェーバを通して西洋的な視点から「インド神秘主義としてのエロス」を鳥瞰する。
 これをこの著者は
ローマの教会は神の理性によって与えられた秩序ある世界(宇宙)を構成している。これに対して「神秘的な熱狂」という宗教形態は、神の理性(摂理)を逸脱した秩序なき愛の浸透によって成り立っている。それを砕いて言えば、愛の無差別主義ということになあるだろう」としているのだ。

 本書は中盤には「密教的エロスの展開」へと記述は展開し、空海を巡る法脈にも紹介がおよぶ。そしてその法脈がインド密教「サンヴァラ密教」に基盤することも伝えている。

 読み終えたところで本書を振り返ると、インドの数千年のおよぶ思想の蓄積が日本の古代にどのような影響を与えたのか、インドの宗教的エロスが源氏物語をはじめとする古典文学の根流に受け継がれているのかを伝えているのが印象的だった。

 

2016年10月26日水曜日

サイードの「晩年のスタイル」とバッハ、グレン・グールド

 この本は2007年の発刊時に週刊誌の書評を見て買い求め、表紙を開くこともなく長い間埃まりれになって書棚に並べられていた本である。そして、その後の私の人生の劇変のなかで何度かの転居を経ても、処分を免れ、私の脇で生き伸びてきた本である。

 サイードという作者がどのような人物なのかにも興味も持たず、書評を見て購入とは書いたが、その書評をななめに読み、「晩年のスタイル」というタイトルだけに共鳴し、今後の老人の生き方指南書、と勝手に解釈した結果だったと思う。当時、「暴走老人」なる言葉がメディアに踊っていたことにも、自分はそうなるまい、と戒めの書としての期待もあったか。

 2015年(つまり去年)初夏、読みはじめた。
 私にとっては、グレン・グールドというピアノ演奏家を知ったのが最大の収穫だった。

 そもそも本書の原題「ON LATE STYLE」のLATEはLATENESS「時候に遅れた」、時流には乗らない独自性から創造性へ、と解釈するすることで理解できる。グレン・グールドもサイードのそのようなスポットの当て方で紹介された一人である。
 グレン・グールドの章を読むのを中断し、アマゾンでグールドのCDをとり急ぎ取り寄せ、「グルドベルグ変奏曲」をはじめとする、10枚ほど適当に選び、これらを聴いた。「グルドベルグ変奏曲」は、他の演奏家に比べ、ピアノの鍵盤を叩く音が、一音一音鋭く建って来るように聴こえた。クラシックにはほとんど縁遠かった、ど素人の私が聴いてもそう聴こた。

 そして何よりも驚いたのは、演奏中、何かが憑依したように唸りながら鍵盤を叩いていたことである。グールドを見出したプロデューサーは、この唸りを止めるように何度も説得したようであるが、グールドが止めることはなかったという。
 そしてこの唸り声がグールドの演奏のスタイルとなった。ピアノの椅子の高さも脚を自分で切り落とし、満足する高さを確保し、鍵盤に覆いかぶさるようにして演奏した。
 この話を読んだときに、棟方志功が版画を掘るときの、版木に覆いかぶさるような鬼気迫る姿勢とどこか重なったのである。
 由里幸子さんという方が、「ブックアサヒ・ドットコム」の中で、「グレン・グールド演奏のバッハの音楽は、時代錯誤的であるとともに自己創造性を誇る」という本書の一節を紹介しているが、私もまさにそのように感じた。
 またネットでひろった別の方の書評に「創造的反復・創造的追体験」をキーワードにグールドの音楽を考える。J・S・バッハは時代の流れに乗らなかったインヴェンション(バロックのジャンル、ピアノの学習用教材として利用されることが多い)の作曲家であり、グールドはバッハの対位法的な世界を再インヴェンションによって構築しているのではないか。グールドとバッハを繋ぐ奇跡の一線はそのインヴェンションにこそある。と書いていた。


2016年10月24日月曜日

フジテレビを巡る凋落論

 昨日、敬愛する日刊サイゾーに「 ”王者はなぜ、玉座から引きずり降ろされた?関係者が独白『フジテレビ凋落の全内幕』とタイトルされた記事が載った。
http://www.cyzo.com/2016/10/post_29998_entry_2.html

 フジテレビの凋落は、ソニーとともに二大没落大企業?としてメディアに報じられはじめて久しい。一方のソニーは業績の恢復も伝えられているが、フジにはその兆候がまったく見えない、世間の評価は大方こんなところに(いまのところ)落ち着いている。

 かつてフジが河田町にあったころ、事業局に出入りしていた時期がある。たけしがさんまのレンジローバーをボコボコにしていたころだ(これはyoutubeでいまでも閲覧可能)。
 このころの本館は玄関正面の美人が並ぶ受付に立ち寄った記憶がない。勝手に行ってくれ、的な扱いで、自由に館内を歩きまわれたと記憶している。警備員も立っていなかったのではないか。ときにはオンエアー中のスタジオに潜り込んだこともあったような、。「アナウンス部の八木亜希子さんお願いします」「はーい、八木です♬」などという今ではあり得ない業務電話の取次ぎも交換手を通してすることができた。いまは美人女子アナに取次いでもらう機会がないから分かんないけど、多分、そんなに簡単ではないでしょ、と思う。

(※ちなみに、いまのお台場はどうなっているかと言うと、受付でパスを発行され、セキュリティゲートにそのパスを通さないと館内には入れない。つまりガチガチに要塞化されているのだ。しかし、大手町を一巡りすれば、セキュリティゲートはいまどきのどのビルにも設置されているし、保険屋のおばちゃんが昔、各部署のデスクまで営業できたという話も、いまどきこれを強行したら不法侵入で逮捕されるに違いない)
 時代全体が駘蕩としていた良き時代だったということになるのだろう。

 おっと、この情報はフジの凋落には関係ない。テレビ局の収益源たる番組コンテンツの不出来こそ凋落の淵源として、個人的な感想を述べたい。

 何よりもバラエティ、報道情報番組系がおしなべて面白くない。自分は見ないがドラマも評判が悪く、ネットで叩かれているものが多い。フジはどこで栄光の時代の番組作りの感性を置き忘れてしまったのか。

「とくダネ!」は小倉智昭が自分に興味のないネタにはあからさまにクソつまらない顔をするし、ツッコミも薄いのが鬱陶しい。この傾向は「直撃LIVE グッデイ」の安藤優子にも引き継がれる。この二人は興味のないネタに対して、クドいようだが、冷たすぎる。
(※「ひるおび!」の恵俊彰を見よ!どのネタも一生懸命進行しているぞ!!)

 夕方の「みんなのニュース」は生野陽子を見ているだけでイライラするし、夜のゴールデンタイムに突入、リモコンの「番組表」のボタンを押して、いちおうフジをチェックするが、まずこの歳で見たいと思うものが、いまのフジにはない。「VS嵐」なんていう、お遊戯番組、嵐のファン以外誰が見るんだよ。

 いや、まったく見るべき番組がひとつもなくなったわけではない。
「ダウンタウンなう」は芸能有名人の人となりを引き出す、坂上忍の技術、それにボケをかます松本、酒を飲めないハマちゃんの触られるまで喋らない絶妙のバランスがいい。
「さんまのお笑い向上委員会」も一流芸人たちのカオス感がいい。しかし、いまのフジには戦えるコンテンツはこれしかない。
 全盛を誇る日テレを少しは参考にしたらと思う。いや素人が心配する前に、十分研究を尽くしているのだろう。しかし今のところ、その成果が見えていない。
 冒頭のサイゾーの記事、日テレとフジの差は「視聴者の立場に立つ番組作り」と「視聴者のための番組作り」の差だと指定している。これは天と地ほどの開きがあるという。


2016年10月23日日曜日

立原正秋と藤沢周平をつなぐ糸

 三十代の前半に立原正秋を読み漁っていた時期がある。角川書店から「立原正秋全集」全二十四巻が配本されていたころだ。配本日になる都度、当時新宿住友ビルの地下商店街にあった紀伊国屋書店に取りに行っていた。(※:余談になるが、全部揃ったこの全集本は後年事情があって、すべて散逸してしまった。)
 「帰路」にはちょっとした思い出がある。その頃パリで仕事があり、飛行機の中と滞在中のパリの安ホテルのベッドで読んだ記憶がある。この作品はヨーロッパに取材した作品で(トレドだったか?)日本文化を継承する日本人の帰路を主人公が考える、というテーマ。読み手として、作品の描く環境に自分を置いてみたい、とのこっ恥ずかしいほど感傷的な思いで、旅のカバンに入れたように記憶している。
 この作品を執筆中すでに食道癌に侵されていた立原は、満足な食事ができなかった状態にあったらしく、美食家立原のそれまでの作品にも増して、食い物の話がこれでもか、これでもかというほど出てくるのが印象深い。

 その後、この作家についてはアマゾンの1円本を買い漁り、主だった作品はすべて読んだ。朝鮮から帰化した立原が日本人以上に、日本の凛とした美、そして強さにこだわった、男女の描写、湘南とくに鎌倉、。とにかくこの作家が好きだった理由がその辺りにあるのは確かだ。
 その尊崇する立原の影響で、わたしは本籍地を鎌倉に定め、いまでも鎌倉に置いている。いま、立原の著作のほとんどが街なかの書店では手にはいらないが、古書はネットやブックオフでいくらでも簡単に手に入る。読み残しの作品がないか、いまでもときどき目を通している(※ウィキで昨日小学館より『立原正秋 電子全集』全26巻が配信中であることを発見した。まだ読者がいることに安堵!)

 藤沢周平を読みはじめたのはそんなに古い話ではない。時代物、歴史物と言えば司馬遼太郎くらいの認識しかなかった浅学の自分が、何を思いたったか、そのきっかけは記憶していないが、「たそがれ清兵衛」の文庫本を読み始めたのである。この文庫本には表題作の他に、「うらなり与右衛門」「ごますり甚内」「ど忘れ万六」「だんまり弥助」「かが泣き半平」「日和見与次郎」「祝い人助八」と言った、いかにも古き良き時代の、山本周五郎を踏襲するか、とでも言いたくなるような、昭和戦前的なタイトルが並んでいたが、とにかく読み始めた。

「たそがれ清兵衛」はその文庫本の突端の作品である。藩主交代を画策する筆頭家老を対立する家老の上意討ち依頼を主人公の井口清兵衛が果たす、という粗筋だが、清兵衛が司馬遼太郎の作品では味わえない武士の造形を成していることに新鮮な驚きを持った。これが自分のツボにみごとにハマってしまったのである。
 けっきょく、この作品が嚆矢となり、藤沢周平についてもいまのところ、ほぼ九割程度読破という状況である。(※ネットで調べたいくつかの「藤沢周平全著作一覧」などを参考に調査)

 そして藤沢周平が業界紙記者から文壇デビューのきっかけとなった作品「冥い海」が1971年(昭和46年)「オール読物新人賞」を受賞したときに、その選考委員の一人だったのが、何と立原正秋であった。(※ほかに南條範夫、遠藤周作、曽野綾子、駒田信二の四氏が選考委員)
 ここで、私が欽慕してやまない二人の作家が一本の糸で結ばれた。
 このことは藤沢周平の何かのエッセイの一節で知った。「立原正秋という偉い先生に選んでいただいて・・」と、藤沢周平は立原正秋の作品についてはどうも読んだことがなかったのではないかと思わせる書き方だったように記憶している。
 しかし一方で、このことによって藤沢周平をもっとも強力に推したのは立原ではないか、とも推量できるのである。もちろん当時の選評まで遡って調べたわけではないが、私はそう思い込むことにしたのである。


2016年10月22日土曜日

目黒シネマという映画館

 権之助坂を上って目黒駅西口に折れるその手間に「目黒シネマ」という、この界隈唯一の映画館がある。昔は自由が丘駅近くに「武蔵野館」というのがあって、足繁く通っていた時期もあったが、目黒シネマが目黒区に残された最後の1館だろう。むろん封切館ではない。二番館というのか、三番館というのか、そういう類いの映画館である。

 とある日、目黒駅前でどうしても数時間潰さねばならない事態が出来したことがあった。駅ビルの上の商店街をのぞいたりしたが、そうそう時間が経つものではない。そこでバスの窓からときどき目にしていた目黒シネマを目指した。通りの掲示板に上映中の映画が二本紹介されている。とても自分の選択肢には入り得ない映画だった。
 一つが、堺雅人主演、香川照之、広末涼子出演の「鍵泥棒のメソッド」、もう一つが朝井リョウ原作の「桐島、部活やめるってよ」。掲示板をにらみながら、そうとうの時間悩んだ。入るべきか、入らざるべきか、。やめるにしても、まだ数時間潰すあてがまるでないのだ。面白くなかったら、途中で出ればいいや、と肚を括り、地下への階段をとぼとぼ降りていった。

 自販機で入場券を買い、入れ替えを待って場内に入った。ほぼほぼ満員になったのである。意外だった。そして意外ついでだったのは、私と同じような時間潰し族と思われる、カバンを抱えた若いサラリーマン風の男が多かったことである。

 映画は二本とも面白かった。これもまた想定外だった。うっすら満足感すら感じた。階段を上がって通りに出たとき、すでに待ち合わせの時間の10分ほど前、。ちょうどいい時間潰しになったのだ。味をしめた私はここに何度も足を運んでいるが、いまだスカには当たっていない。上映する映画をセレクトしている人の目が確かのだろう。

2016年10月21日金曜日

食材としての人間の歴史〜「舂磨砦(しょうまさい)」を知る 『西域の虎』

 漢の時代から、飢饉になると、弱者を捕食する集団が現れた。史書では彼らを飢賊、餓賊、飢寇と称している。捕獲したり、仕入れた食用人間は殺されて長距離輸送用の保存食として前線部隊に補給された。「資治通鑑」の「後簗太祖・関平三年(909年)」には宰殺務の職の名が見られる。この職は、食用人間に餌を与え飼育しながら殺して軍用食にあてる任務。保存の方法は、塩漬けの塩戸、天日で乾かす乾戸。その炊事場を舂磨砦(しょうまさい)という。

 人肉の入手経路は、1.貧民や飢民が家族を人肉商人に売り渡す。2. 飢饉や戦乱に乗じて盗賊や軍隊が人々を捕らえて売る。3. 政府の役人や獄卒(監獄の下級役人)が死刑囚を正式、または非正式に民間に払い下げる。

 死刑囚の肉を政府が払い下げていたことは、唐代以前にも記録があるが、本格的に行なわれたのは唐代以降からで、20世紀になっても北京をはじめとする大都市の刑場でよく見られた。中国の死刑執行は、たいてい市街の広場で行なわれ、凌遅(りょうち)の刑という。生きたままの囚人の肉を一切れずつ切り取っていく手法がよく用いられたため。回りを囲む群衆が払い下げられる囚人の肉を待っているのは、斬刑という首斬りよりも食肉としては新鮮なため。

 人肉の価格について

1. 人肉は常に、米やイヌ、豚の価格より安い。唐の時代末期の鳳翔市での市価は、人肉一片(600グラム)が100銭。犬肉が500銭。

2. 男性の肉は女性の肉より安い。1647年の四川での市価は男の肉一片が7銭、女の肉が8銭。これは、女性や子どもの肉が柔らかく、美味しいと言う理由から。

3. 戦乱の時期には高騰。19世紀半ば、江蘇地方で売られていた人肉の価格は一片90文だったのに、太平天国の乱で一片130文に跳ね上がった(曾国藩日記)。

 このように、この著書「西域の虎」の一節に、中国の歴史のなかで食材として人間が供されていたことが淡々と記述されている:あまりに淡々と描かれているがゆえにかなりの衝撃を受けた。

 「空飛ぶモノは飛行機以外、四足は机以外ならすべてを食材とする」と言われている中華料理の闇を引きずるような原点が、この歴史にあると言ったら言い過ぎか。

 川口久雄という著者は、国文学者であり比較文学者でもあり、すでに鬼籍に入られている。この著者との出会いは、岩波の日本古典文学大系「菅家文草 菅家後集」巻に菅原道真の膨大な前文解説文を書いたが、詩人大岡信が何かの記事に、この解説文のことを、菅原道真に関するもっとも詳細な資料として紹介していたことにはじまる。
 「西域の虎」は平安朝比較文学論集で、weblio辞典からその概要を引用すると次の通りとなる。

研究篇 :わが国物語ジャンルについての課題-N.I.コンラドの所説をめぐって 『源氏物語』の世界と外国文学,『源氏物語』における中国伝奇小説の影-『飛燕外伝』『飛燕遺事』『趙后遺事』を中心として,『宇津保物語』に投影した海外文学,平安前期の漢文学,清公の詩・遍昭のうた,『古今和歌集』と漢文学-「年のうちに春はきにけり」という歌について,『かげろふ日記』の書名についてー「かげろふ」の語義とその変遷,『李商隠雑纂』と『清少納言枕草子』について,『枕草子』の文体における俗文学的様式,『本朝文粋』『本朝続文粋』の世界,『本朝神仙伝』の神仙文学の流れ,『古本説話集』の比較文学的考察,平安後期漢文学における新潮流,日本漢文学史の展開。

訪書篇 :アーサー・ウェイリーの生涯を貫く敦煌研究,アーサー・ウェイリーと中国-作家と外国・比較文学的考察,敦煌変文と敦煌画-ブリティッシュ・ミュジィーアムの思い出,西域の虎-敦煌画幻想 トマス・ハーディのくに・ドーセットの旅,チャルドン・チャーチ地獄変壁画,パリの敦煌写本-フランス国民図書館のことなど,エタムプの結婚式,エル・エスコリァル訪書紀行,アェギナの乱礁にてー和辻哲郎著『風土』,白夜のくに・熱砂のくに,孟姜女曲子・諸橋大漢和辞典-敦煌資料の旅ノート,白夜のみやこ・敦煌資料の旅-レニングラード東洋学研究所訪書記。


この著者の著作で、「三訂平安朝日本漢文学史の上中下巻」「敦煌よりの風1〜6巻」はどうしても購入したい書籍なのだが、あまりにも膨大な研究書であることと、いまの私にとっては高価すぎるのだわ。





2016年10月20日木曜日

学者ではなく、職人としての医者を考える。「壬生義士伝」より

 1874年(明治7年)当時の政府・文部省が「医制」を交付し、それまでの主流であった漢方医から西洋医学への急迅な転換をはかった。そしてその翌年明治8年に医師の開業試験である「医術開業試験」が実施され始めた。 
 そういう時代背景のもと、済生学舎という医術開業試験を受験するための医学校ができた。この医学校は三十年足らずのあいだに一万人近くの医者を世に送り出した明治期の開業医の一大勢力となった。帝大医学部卒の医師たちの対局に位置していたと言ってよい。
 それはなぜか。朝敵となった諸藩出身の優秀な若者に与えられた唯一の医者への道とならざるを得なかったからである。この済生学舎の創立者長谷川泰は越後長岡藩出身の朝敵であり、野口英世も朝敵会津の生まれ、というように薩長が主力の明治政府から徹底的に差別された勢力が主流となった。明治二十七年の日清戦争ではこの済生学舎出身の現場経験を積んだ熟練の医者が重用されることになったのは、帝大医学部出や軍医学校出の医者はあまりにも現場経験がなさ過ぎると軍上層部が判断したことによる。
 二年前の二月天皇陛下は心臓バイパス手術のために東大医学部附属病院に入院された。てっきり東大医学部出身の優秀な教授が執刀するのかと思ったら、その手術で現場経験を多く積んだ順天堂大学医学部の天野篤教授(日大医学部出身)が招聘された。日本最難関の大学出身であることと、「手術の腕」が一致しないのは明治初期から脈々と受け継がれていたのだ、と「壬生義士伝」(浅田次郎著)を読んでる最中に感じた、、。

ストレートでウィスキーを飲むということ

「お手数をかけました。ウィスキーを飲んでいってください」英国人作家グレアム・グリーンの「ヒューマンファクター」という小説の中で、主人公が息子のはしかの往診に来た医者に向かって、帰り際にかける言葉である。

 二十数年前前のことになるが、ロンドンの取引先の人から自宅に招待されたときの話だが、訪問した時間が夕刻だったとは言え、ウィスキーをふつうにストレートで出された。日本風のおつまみも、氷も、薄めるための水もなく。イギリス人がウィスキーにかける思いって、日本人の飲酒文化とはぜんぜんちゃうんだ、とかなりの衝撃を受けたことをいまでも鮮明に記憶している。

 村上春樹の「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」はスコットランドのアイル島、アイルランドの醸造元を巡るウィスキー紀行で、各地のうまいウィスキーを飲みながらのパブやホテルをハシゴしてゆくお話。村上春樹独特の時間の流れ方が味わえる。この本に感化され、紀行文中に紹介されていた「ブッシュミルズ」をアマゾンで求め、ストレートでちびちび飲んで、二人の作家の雰囲気を味わってみた。あー、やっぱりワシは、乾き物でいいからツマミが欲しい。氷入れて水で少し薄めたいわ、。

2016年10月19日水曜日

「サレジオ教会」四邊、私の惑星

 JR目黒駅の中央改札口を出て左側に折れ、西口に向かうと、正面すぐに東急バスのバス停がある。その一番近いバス停が「大岡山小学校行き」。日中はほとんどシャトル状態で数分間隔で発車するのが有り難い。これに乗る。バスは権之助坂を下り、山手通りを横切って、目黒通りのアンティーク家具店が散在する目黒通りを突き進む。やがて目黒郵便局を過ぎ、大鴻運天天酒楼という有名な中華レストランを右手にみて、バスは清水池方向に左に折れて、片道一車線の細い通りに入る。そして「清水池」バス停を出てすぐの交差点、目黒七中前を右折する。

 ようやく「碑(いしぶみ)さくら通り」に入るのである。バスは「七中前」、「碑文谷二丁目」と停まり、つぎの三つ目が「サレジオ教会」前である。ちょうど教会の横っ腹にバスが停まるかっこうになる。
 このサレジオ教会四邊が、何をかくそう私の惑星、。じつはここ1,2年、ほとんどこの惑星から離れたことがないのだ。せいぜい遠出しても、イイとこ学芸大学前商店街まで。仕事はネットにパソコンが繋がって、Office365があれば何とかなるし、生活も、グーグル、アマゾン、SEIYUドットコム、ヨドバシドットコムを使えばほぼ全般をカバーできるし。いや、それに出前館も必要か、。そして複数のネットバンクを使えば、ほぼ100%手元に現金を必要としない生活が実現する。

 そういう自分が住む惑星のおかげで、というか、みずからが造り上げた惑星のせいで、リアルの自分の肌に感じられる風景は、マンションの窓の下の碑さくら通りだけかも知れない。しかし、春にはベランダ眼下の桜の老木が美しい満開の花を咲かせる、超圧巻とも言える風景に変わる。このシーズンはカメラをブラ上げて散策している人たちに多く出会う。原爆投下の日や終戦記念日などは、サレジオ教会の鐘楼から、鎮魂の鐘の音が響き渡るし、クリスマスシーズンは教会の前に毎年、キリスト生誕の馬小屋が出現し、鐘の音も喧しい。

 きのうの夕方、さくら通りのまっすぐ西の方向、環七に沈む大きな夕日は思わず見惚れてしまった。この惑星に籠居した生活だからこそ、見えてくる世間がある、と最近自分に言い聞かせている。